遺書と恋文

頭痛腹痛毘沙門天

声、あるいは音のような

「フラッシュバックに苛まれながら母の自殺について詠みました」

歌集、「声、あるいは音のような」の鑑賞文をブログに載せたことをきっかけに、歌集の作者である歌人・岸原さや氏とTwitter上で個人的にやりとりをするようになった。そしてそのやりとりのなか、この記事を読んだ岸原氏は冒頭のように話してくれた。

オルガンの和音をさがすでたらめな幼いゆびを母は咎め

ぽろん。オルガンを弾く幼い娘の指は和音のようにやわらかかった。それを見つめる母の目もまたやわらかく。手放しで娘を愛すること。だれも、ただしさもまちがいももとめない。しあわせであればそうでいい。せいかいもまちがいも抱きしめようとする歌。

あたたかいまだあたたかいから耳の奥へ声さし入れる、おかあさん

自殺だった。あたたかい。まだあたたかい。おかあさん。本当にかなしいのはだれ?本当に痛みを忘れられずにいるのはだれ?縋るように耳にくちびるを寄せる。おかあさん。もしあの日に待ち合わせの約束をしていたら。「声が聞きたくて」と、それだけで電話をしていたら。用もないのに会いにいっていたら。たらればなんて馬鹿みたいだけどそればかり浮かんだ。ただ、すくなくとも彼女の母の死を否定するわけではないことは強く言っておきたい。この歌でいつかの、もう会えないいつかの女の子を思い出した。

遺された者のさまよう深い森たぶんわたしも踏み入っている

おそらく僕は遺される側だろう。歌と同じく、深い深い森から彼ら・彼女らを見ている。見ていることしかできない。そしてぽつぽつといなくなってしまう。いなくなっては現れて、それは森から出て行った人たち。やはりぽつぽつと易く消えていく。一瞬でいい。なのに僕は森から出られない。本当は出たいのに、出してもらえない。恨めしく「遺された者」として見ているしかないのだ。

フラッシュバックに苦しむなかでそれらを詠んだこと。耐え、目を逸らさず、くちびるを噛んで血を流し拳を握りながら、そうして「短歌」という形に昇華したことに岸原氏へ敬意を払いたい。

僕たちは生きる、わらう、たべる、ねむる、へんにあかるい共同墓地で/ 岸原さや

えーえんとくちから

リストからの一冊。この歌集の著者である笹井宏之氏は26歳という若さで亡くなった。しかし没後も生前と変わらず評価され続けている。歌集「えーえんとくちから」もいまだ褪せないで繊細な感性を31字に与えた。

愛します 眼鏡 くつひも ネクターの桃味 死んだあとのくるぶし

あなたを構成するもの。それらすべてを愛したい。読書するときにだけかける眼鏡も、ほどけかけたくつひもも、桃味のジュースも、愛したい。死後のくるぶしもすべてがあなた。わたしは、あなたのすべてを、愛します。たとえそれが間違った選択の先にある愛かもしれなくても、あなたが望むなら。わたしは、あなたのすべてを、愛します。

暮れなずむホームをふたりぽろぽろと音符のように歩きましたね

ぽろぽろというオノマトペを、すこし心もとなくてしずかな場所が映るこのシーンに使ったことで、足元の脆弱さや不規則にゆれる幽霊のような足取りが伺える。暮れなずむホームを歩くのはセーラー服を着た女の子がふたり、手をつないでいるかもしれない。でも彼女たちにはいつかの未来は来ないだろう。そしてそんな福音のきこえない未来を、ふたりはそれぞれに歩いていかなければならない。こころの揺れかたを繊細に切り取った、いや舞台に溶け込んだ、とてもきれいな歌。もしかすると笹井宏之氏の歌のなかで一番すきと言えるかもしれない。

半袖のシャツ夏オペラグラスからみえるすべてのものに拍手を

オペラグラスを使わないと見えなくなってしまったものたち。半袖のシャツ。夏。水飲み場。塩素の匂い。あなた。そのたおやかなうつくしさ、つよさはもう自分にないものばかりで。もうそこは自分のいる場所じゃないと分かりながらもオペラグラスを取り出すときの気持ちはどんなものだろう。舞台へ拍手を送る。もう遠く遠くに取り残してきてしまったものたちへ。

戦争が優しい雨に変わったらあなたのそばで爪を切りたい

戦争で人が人を傷付けることばかりを繰り返し、そうやって過ごす毎日に浴びる焼夷弾。黒い雨がいつかやさしい雨になりますように。そのときはどうかあなたのそばにいたい。爪を切るという何でもないことを、何でもないわけじゃないんだよ、と、あなたのそばでしたいのだ。

切れやすい糸で結んでおきましょういつかくるさよならのために

いつでもかんたんに離れられるように。いつでも離してあげられるように。離してもらえるように。あなたのくすりゆびに赤い糸が見えるね。その先につながる自分のゆびをじっと見てみる。しあわせだ。しあわせなんだよ。でもいつかここで終わらせないといけない物語。あなたとの日々を終わらせないといけない物語。

笹井宏之の歌集「てんとろり」もこの歌集と同じく、ちいさなちいさな宝石が散らばってそこに天の川ができているような歌たちがそこかしこに見える。ときに雨がやんだときの静寂、ときにだれかに電話がしたくなる深夜の静寂。その影がふちどった歌にある奥行きが僕たちを惹きつける。

 

解離性同一性障害

嘘つきと言わないでほしい。自分は自分であって自分じゃない自分を自分が認めるしかないから。

解離性同一性障害。聞いたことがある人もちらほらといるかもしれない。僕はそれを罹患していて、ときにはほかの病気などより厄介なものになり得て頭を抱える。

ざっくり言うと多重人格みたいなもので、怪奇小説として有名な「ジキルとハイド」を想像してもらえると分かりやすいと思う。いろいろある何かしらのきっかけで僕は僕じゃない僕になってしまう。それが自分の、「まぐ」という人間の意思でなくとも。

落ち着いている今でこそぱたりと周囲から何も聞かされていないけれど、最低でも3人いる(いた)ことは今のところはっきりと分かっている。彼らは僕と離れた場所にいながら僕から目を離さない。一方で僕は彼らの言葉さえ聞くことはできないというのに。何らかの方法でコミュニケーションがとれるなら尋ねてみたいことはいくらでもあるが、それができないのがもどかしい。

筋力も声色も嗜好も変わってしまう病気。

初めてこの病気を知るきっかけになったできごとが起きたのは23歳のときだ。先に書いた3人のうちの1人がひどい乱暴者で、恋人の腕に刃物で怪我を負わせた。

当時の恋人はちょっとしたことで手をあげたり怒鳴ったりする男だった。

その日、何が理由だったか忘れてしまうほど些末な理由で怒鳴られ、熱したフライパンを背中に押し当てようとされていた。今までになくおびえた。

暗転したような意識と視界からわっ、と気が付いたとき、深夜のはずなのにベランダの向こうがうすら明るくなっていた。数年経った今でも思い出せる。僕は手汗をかく右手でカッターを握っていて、目の前にいる男はもうしないから!しないから!と繰り返していた。何をと聞いても要領を得なくて、すこし苛立ちがあった。

部屋が荒れていた。驚いたのは椅子の足が折れているわ自分のノートパソコンの液晶がバキバキに割れているわということ。男はすべて僕がやったと言うし、腕から血を流しながら僕の態度をいぶかしんでいた。その血も僕がカッターを振り回してつけた傷のせいだと言うがあわてている男の話はほとんど理解できなかった。のちのち共通の知人からは筋膜が切れたんだったか一歩手前だったか、傷の深さを聞かされた。そんなこと知らない、と言えなくてその場は黙った。

それまで暴力も大きな怒声も甘んじていたけれど、僕は自分がしでかしたことを疑いながらもおそろしくなり、男とはこのできごとを最後に会うことをしなかった。もう一切関わりたくないと思われたのか警察沙汰になることはなかった。

多分、今思えば恋人からの続く暴力をきっかけに発症したのだと思う。怪我を負わせたその日を契機に異変はつぎつぎと続き、立つことさえつらくなるほどの睡魔を感じて眠ったと思うとそのたびきっかいなことばかり起きた。そのころの記憶はもう今の自分にほとんどない。記憶が当事者になれず、体だけが取り残されたからではと考えている。

趣味ではない色やデザインの服が増え始め、それに気付くと決まって現金で買ったことが分かるレシートも見つかった。メンバーの一人の名前さえ言えないほど興味のないアーティストのツアーグッズや吸わないメンソールのタバコ、自分の好みでないかおりの香水のアトマイザーなど身に覚えのないものがバッグから出てくるようにもなった。

大切な友人に殴りかかって迷惑をかけた。

人目を気にせず往来で泣き叫んで家族に恥ずかしい思いをさせた。

太ももに爪を立てて周りが止めるのを聞かず血が出るまで掻きむしった。

知らない、やっていないなんて主張は通じない。指をさしてお前がやった!とだれもが言う。でも本当に知らないんだと、それをどうかだれかに肯定してほしくて、そこで浮かんだのがかかりつけの精神科の医師だった。望んだ言動じゃないと理解してほしい。助けてほしい。苦しいと言わせてほしい。その一心でふだん最低限のことしか話さない僕が診察中に打ち明けると、話し終わったあとに医師から告げられた。

解離性同一性障害という病気があります」

医師からここ数ヶ月のめちゃくちゃな生活の原因が病気だと言われたとき「病気だから仕方ないことなんだ!」と勝手に救われた気持ちになって泣いた。ただ、だからといって自分がしたことが帳消しになるわけじゃないと我に返って医師に治療法を尋ねた。しかしきっぱりと、ありません、と。続けて言われたのはこれはこころの揺れが引き起こす病気だと。

抗不安薬などの薬でこころを安定させること、スイッチングといって人格が入れ替わることを引き起こすきっかけを知ること、そして引き起こさないためにそれらを避けること、いつか統合と呼ばれる人格の交代をしなくなる状態は来るということ、それらを聞かされた。

とは言えこころの不安定さが罹患に至る原因なら僕にこころがある以上どうしようもないじゃないかと思うところもあった。だれかに話せば演技や嘘だと嗤われているようで、また、打ち明けたところで治るものでもないしと口をつぐんだ。

病気である自分が悪いのだと自覚すれば許されるわけじゃない。でも現状、統合できているのではと思う反面にある本当にそう?思い込んでない?とちらつく考えをぼかすためには、せいぜい自覚することくらいしかできない。だれのせいにもできないし、そう容易に症状を閉じ込めることもできない。

またひとつ拾ってまたひとつ失って、道が終わるころ僕の手には何が残っているんだろう。もしかしたら拾ってきたものたちさえ、気が付いたときには手に残っていないかもしれない。いまだに頑として自分と向き合わないで生きている僕の行き着く先が、すこしでも明るいといいのに。

窒息

「傷付くって分かってるのにどうして短歌をやめないの?」

そう聞かれたとき、答えられなかった。今まで考えもしなかったことだったから。なのでブログという形で向き合ってみようと思い今回筆を執った。結論から言えば自分なりの答えは出せずじまいだった。

まず、僕は10年以上短歌を趣味としている。歌集を読むのがすきだし自分で詠むこともすき。今までどれだけ詠んだだろう。本棚には歌集が並ぶ。

蛇足だが、昨今ではTwitterでもプロ・アマ問わずハッシュタグで検索すれば短歌が読める。ぜひ検索してほしい。近代短歌とちがい、現代短歌は口語的かつ心象風景的なものだから修辞法や古典的仮名遣いなどにこだわることなくハードルは低い(是非が問われるところだしそこからなる派閥もあるが)。普段触れることのない人から思われているほど取っ付きにくいものではない。

冒頭の質問を投げられたきっかけは、すきな歌人の1人である木下龍也の「天才による凡人のための短歌教室」という指南書について友人に感想を話したときのことだ。

「短歌を詠むことで人が救われることはない」

読み進めているなか、突如その言葉に殴られた。それまでは「ふむ、なるほど」「僕もそれ、わかるなあ」と思いながら読んでいたはずだったのに…

感想を聞いた友人がこぼした疑問。「どうして短歌を続けるの?」。その場ではもちろん答えられず、そのあと何度も反芻した。しかし答えが出せない。出さないことが救いになるのか?出さないという答えが正解なのか?という気さえする。

短歌は自分と人生を豊かにするものだとばかり思っていた。そのために傷付くことがいくらあっても、いつか、短歌がもたらすものを享受するうえで必要なものだと信じてやまなかった。

自己と向き合うこと。現実と向き合うこと。そして気付くことは傷付くということ。その生きる勇気や死ぬ希望を短歌という形として残すにはエネルギーが必要であり、そうやってこころを削ってできた歌たちは、評価される出来のものでなくとも良歌でなくとも、すべて僕の子供だ。足あとだ。これまでとこれからの人生だ。ときに短歌そのものが自傷めいた存在になり得ようとも。

すきだからとか、楽しいからだとか、それだけの枠に収めるにはあまりにもったいなさすぎるし、その場しのぎの安易な言葉ではそんな枠は簡単に決壊してしまう。ばしゃばしゃとあふれた短歌への思いが行き着く先はおそらくだれかを傷付けることだろう。

僕はまだ短歌を手放せないし、これから先もそうすることはできないと思う。僕が持てる唯一の武器が短歌。なにひとつ長所と呼べるものを持ち合わせていない僕の武器。ナイフや短銃のような存在の武器。それが短歌。たとえ自分を傷付けるものであっても。失いたくない。失うのがこわい。失ったあとのことを考えたくないし、考えられない。

だから僕はもがいてもがいて、足場を崩しながらここまでやってきた。自分を傷付けながら自分をかたちづくるものとしての短歌。そのための傷あと。それさえ愛おしい。 

短歌に救いはないという言葉。しあわせになることはないと分かりながらもずっと短歌をつくり続ける僕は、いずれ窒息死でもするんだろうな。いいよ、短歌に殺されるなら、それもいい。死因、短歌。来世来世。

弱音の墓

すくなくとも僕にとって弱音を吐ける居場所は家じゃない。

どういう意図でのことかは分からないけれど、両親は僕ら兄弟に自分の部屋を与えない。それが家庭の方針だ。それはとっくに成人した今でも根深く残っている。まあ自室なり子供部屋なり、個別に部屋を持たないのが一般的に珍しいことであると知ったのはまだ新しい話だが。

空き部屋はいくらでもある。2回の増築の結果だ。経済的にだとか家の構造上だとか、そういう理由で部屋数がないからという問題ではない。使われずそのままになっている部屋が何室あることだろうか。ただしそれらを自分の部屋にするのは許されず、両親の目の届く範囲で生活しなければいけない。自宅にいながら解放されるのはお風呂場とトイレだけ。だけ、と言えど、窮屈を嘆きながらもそのあたりにはまだ救いがある。いや、無理にでもそう思わないとそれこそ救いがない。

毎日毎日、母もしくは父と同じ部屋で寝る、同じ部屋で勉強する、同じ部屋で電話をする、同じ部屋で作業する。この記事を書いている今もだ。ひとりきりの空間もひとりきりの時間もなく、小説一冊だって集中して読めやしない。父による何かにつけての騒音は耳栓を使って耐えるしかないし、母の機嫌が悪ければそこからくる八つ当たりも甘んじている。そのストレスをどうにもできず自傷行為をしたことなんてもう数えきれない。まあそれすらお風呂もしくはトイレだけど。リストカットオーバードーズを嫌う両親が原因でそれをする、なるほど、なんて滑稽なことだろう。

同じ空間にいるがゆえに感じる窮屈さを挙げ始めればきりがない。親の機嫌次第で居心地の悪さが左右される。気分が塞でいるとき、ついこらえきれず泣いてしまっては叱られる。友人と電話でどんな会話をしているか筒抜け。ひどいと交友関係にまで干渉する。そういったものとうまく付き合っていかなければと思いながらも未だ慣れることはない。

個別の部屋を与えず言動を把握するのはいわゆる過干渉というものだが、親との距離感が一般的と言えないことだと知ったのも自室の有無と同じでまだ日が浅い。ただ、それをはっきりと確信したとき、僕のなかの「普通」がぐらりと傾いた。

兄と弟と僕。3人のなかで取り残された僕が手放してもらえないままここまで来てしまった。兄弟は僕よりずっとずっと先に「普通」の揺らぎに気付いて早々に手を打ち、それぞれの距離を置いた。兄は大学卒業後に今の伴侶である恋人との同棲を理由ときっかけにして、両親からのはちゃめちゃな反対を押し切り実家を出た。学生の弟は寝に帰っているだけ。同じ家に住みながら顔を合わせなくなって久しい。早くお金返してくれないかな。

親と過ごすことで感じる居心地の悪さや不満、そして今後の不安、それらを知らんぷりする言葉は「ルールだから」。魔法の言葉だ。あるときは親の言い分に、あるときは自分の落としどころのために。どこで降ろしたらいいかわからない荷物を持ちながら繰り返しそう言い聞かせている。そのルールが異常であろうとも、僕が両親の子供である以上、何歳になっても子供は子供だし親は親。それが呪いのようにつきまとう。

兄みたく諦観をエネルギーとして走っていくのはそうやすやすとできることではない。兄は親を切ってしまってもうまくやっていけるだけの処世術や人望、人柄を持ち合わせているだけであって、僕が同じことをしてしまえば「独立」ではなく「孤立」になることは目に見えている。真綿で自分の首を絞めることになるだろう。

両親にとって秘密とは悪なのだ。日々、父であったり母であったりが僕の言動に目を光らせる。まるで看守だ。だとしたら僕は囚人じゃないか。Twitterでは「よくオフ会をする人」とフォロワーたちが認識しているし、間違っていない。だがなぜそうであるかというと、囚人の僕が看守の目をかいくぐれるのはネットの知り合いと食事をするなどの時間くらいだからだ。

秘密を悪としているように、両親は涙までも否定されるべきものとしている。助けてともつらいとも言えずに、自分の居場所だと思いがたい空間で涙をこらえ過ごしている。どう訴えても無駄だろうけれど、家でくらい手放しに泣くことを許してほしい。現実には泣いている、泣いていたのを隠すことがうまくなっていくばかりだ。

家族と縁を切ることを考えていた時期もあった。ところが家族との縁は切るのは簡単でも、それが自分にとっても両親にとっても良いことかと言われると、僕は断じて得策だと言わない。今現在は実家にいるもののルームシェアをしてみたことで(まだ解消はしていない)、物理的に親元を離れることについて向き合った。わかったのは住む場所を変えるだけの、そんな単純な話じゃないということ。このことは分かってもらえない人には一生理解できない。

「親からの束縛がしんどいなら家を出たら?」「もういい歳なんだから親元から離れたらいいのに」

もしこれを読みながらそんなことが言えるのなら、それはあなたが恵まれた人間だからだ。呆れるなり小馬鹿にするなりすればいい。大きい声で主張し、正論を言ってやったぞと満足するなら、僕と僕の話、環境を殴ることで勝手にそうすればいい。そう言える自分を高尚な人間だと思い続けたらさぞしあわせなことだろう。

どこでなら、だれの前でなら弱音を吐露していい?嗚咽を漏らす勇気もないまま居場所と現実から目をそらす僕はふわふわと根無し草のようにたゆたい、そのしわ寄せとしてこれから先もたくさんのものを失っていくのかもしれない。

すり減っていく日々といのち

去年の秋、友人の叔父であるEさんが亡くなった。自殺だった。

何がEさんを追い詰めたのだろう。友人は、Eさんがよく体調を崩して入院することがあったということだけしか知らないと言う。もしかしたら何かしら精神的な疾患を罹患していたかもしれないが、そんなことは憶測の域を超えない。

僕は飛び降りたあの日「やっと救われる!もう苦しまずにいられる!」と、死への恐怖や躊躇いはなく、清々しさと安堵感があった。これでもうすべてを放り投げることをゆるされたと。お酒も薬も飲まなかったのは"純粋な死"でありたかったからだ。僕はそのとき死というエネルギーを感じていた。

Eさん、あなたは死のエネルギーを受け止めることはできましたか?あなたは最期に何を思いましたか?

のこされた人間たちはそれぞれの後悔とかなしみを抱えながら、それぞれの信じるものに掴まって、それぞれになんとか毎日の生活へ戻っていった。友人もまたそうであった。ときどき息の仕方を忘れてしまいそうになりながら。

Eさんの死によって、友人は自身の死生観の変化を自覚した。希死念慮に振り回されながら、彼はなんとか足場を保っている。空虚感に苛まれても、自身の死について考える時間が増えても、ときに自分を傷付けることがあっても。

友人はただひとつ後悔している。「当然に明日はやってくる」と思っていたことを。Eさんは自分の意思で明日を捨てた。それを何人たりとも否定してはいけない。いや、することはできない。

今ではもう、とばした紙飛行機の行く先は知らない。拾い上げることもできない。

Eさんへ。あなたにどうか紙飛行機が届きますように。そしてあなたは、あなた自身の選択が間違っていたとは決して思いませんように。すり減っていく日々といのち。あなたにとってのしあわせが、しずかに、しずかに訪れますように。

摂食障害

摂食障害を楽しんでいる、突き抜けて変わった女性と友人になった。

はじめに、僕は摂食障害をわずらったことがない。だが近いものだと高校生のときにウサギの餌のような昼食を食べたり、飴を舐めることまでも怖かったり。そんな時期があった。太りたくない気持ちが食欲を抑えた。

今思えばちょっと危なかったかもしれない。

しかし現在そんなことがないので、疾病として悩んでいることは一切ない。以下は当事者の話や行動について経験などを聞いただけであり、あくまで僕自身が思ったことを言及しているだけだということを先に記しておく。それ以上でも以下でもない。そうでないとあちらこちらに敵をつくってしまうので…

僕が今まで出会ってきた摂食障害の罹患者は、主に過食嘔吐を繰り返す患者が多かった。彼女たちはいつだって苦しんでいた。食べることへの罪悪感。吐くことへの罪悪感。それでも食べることも吐くこともやめられず、食べては吐いて、食べては吐いて…

そのたびに自己肯定感をボロボロにしていた。彼女たちは「楽しく食事がしたい」「吐かずにちゃんと吸収(吐かずに栄養やカロリーを摂ることを指す)したい」「食べ物に固執したくない」とくちぐちに話す。

痩せたいという気持ちは多くの人にあると思うけれど、そのいきすぎたものが摂食障害という疾病。ある種の自傷行為だ。泣きながら夜中に冷蔵庫を漁って、手当たりしだい口にしてしまうのだろうか。

しかし僕が知り合ったTさんという女性は今まで接してきた摂食障害の人びととあまりにもちがいすぎて。その行為を楽しんでいるのだ。

過食嘔吐はエンターテイメント!!」

きらきらしながらそんなこと言うのでつい笑ってしまった。面白い人だなあとは思ったけれど、それとは別の話。その主張が僕にはさっぱりわからなかった。先に書いたように、摂食障害を抱える人たちはそんな前向きなことを一度たりとて言わなかった。つらい。治したい。カロリーを気にせず楽しく食べたい。でも太りたくない。痩せたい、痩せたい。きれいになりたい。それが危険な行為だとしても。

Tさんの話では食べるところから始まり、吐くまでが一連の流れなんだとか。吐くまでがワンセット。ワンセット…?何を言っているんだ…?僕としては「帰るまでが遠足です」に通ずるものがあると感じた。というより無理やり納得させた。でないと視野は狭いままだ。

もちろん、彼女は何も初めから楽しんでいたわけじゃない。ダイエットをきっかけにエスカレートしてしまった結果の摂食障害。最初こそ「また吐いてしまった」と、大切な人との食事でそう思っていた。けれど何かの契機に考えが変わった。それがどんな契機だったということは彼女自身でも分からない。

嘔吐の仕方はさまざまだ。指を口の奥に入れる方法、腹筋吐きと呼ばれる名前の通り腹筋に力を入れる方法。なかでも彼女はハイリスクハイリターンのチューブというやり方で嘔吐している。

そのチューブ吐きのリスクというのはさまざまな形で表れる。

たとえば窒息。食べ物が逆流することでそれが気道に入ると窒息する。

また、胃などの内臓に穴が開く場合もある。安全な医療用のチューブではなく、素人がホームセンターなどで手に入るホースを使うと胃や食道を傷付ける。その結果穴が開くわけだ。チューブのリスクはまだほかにもある。

Tさんはそういったリスクを自覚しながら、メリット・リターンに縋り、日々過食と嘔吐をしている。

「おいしいものをいっぱい食べられるのに、でも太らない。これってすごく良いことでしょ?」

と、にこにこ笑って彼女は語った。なるほど。なるほど?まあけれど、病気というのは自分がその症状に困って初めて病気になるわけで。

ただ、困っているのはTさん自身の位置がどこにあるか。わけを聞けば「やっていることは病的だと思う。でもわたしはそれを治したいとかやめたいとか、そういうことは思わないんだよ」と。これは病気なのだろうか。それとも彼女の言う娯楽なのか。なるほど難しい話だ。

だが、エンターテイメント!当事者が能弁にそう言っているのなら僕はとめない。とめる必要がない。やめてほしいと思ったりそれを口に出したりするわけでもない。

今後、いつか彼女の病気が治りますようにとはまったく思っていないし、心配するという感情こそがそもそもTさんにとって煩わしいだろうからしない。だって食べることも吐くことも、最後まで楽しんでいるから。本人が一番それで良いと思っていることなんだから。

Tさんとの出会いによって、ああ、娯楽のように捉える人もいるんだな、と勉強させられた。デリケートな問題だと思いつつ筆を執ったのは、こんな風に考える人もいることが事実だと、それを罹患している人にそう伝えたかったからだ。伝えたかっただけだから、そこに肯定や否定の感情はない。

摂食障害、エンジョイ勢。彼女は今日も楽しく食べて見えない敵と戦いながら、今日もまた吐いていることだろう。結構なことだ。ただし後悔だけは、しませんように。