遺書と恋文

頭痛腹痛毘沙門天

窒息

「傷付くって分かってるのにどうして短歌をやめないの?」

そう聞かれたとき、答えられなかった。今まで考えもしなかったことだったから。なのでブログという形で向き合ってみようと思い今回筆を執った。結論から言えば自分なりの答えは出せずじまいだった。

まず、僕は10年以上短歌を趣味としている。歌集を読むのがすきだし自分で詠むこともすき。今までどれだけ詠んだだろう。本棚には歌集が並ぶ。

蛇足だが、昨今ではTwitterでもプロ・アマ問わずハッシュタグで検索すれば短歌が読める。ぜひ検索してほしい。近代短歌とちがい、現代短歌は口語的かつ心象風景的なものだから修辞法や古典的仮名遣いなどにこだわることなくハードルは低い(是非が問われるところだしそこからなる派閥もあるが)。普段触れることのない人から思われているほど取っ付きにくいものではない。

冒頭の質問を投げられたきっかけは、すきな歌人の1人である木下龍也の「天才による凡人のための短歌教室」という指南書について友人に感想を話したときのことだ。

「短歌を詠むことで人が救われることはない」

読み進めているなか、突如その言葉に殴られた。それまでは「ふむ、なるほど」「僕もそれ、わかるなあ」と思いながら読んでいたはずだったのに…

感想を聞いた友人がこぼした疑問。「どうして短歌を続けるの?」。その場ではもちろん答えられず、そのあと何度も反芻した。しかし答えが出せない。出さないことが救いになるのか?出さないという答えが正解なのか?という気さえする。

短歌は自分と人生を豊かにするものだとばかり思っていた。そのために傷付くことがいくらあっても、いつか、短歌がもたらすものを享受するうえで必要なものだと信じてやまなかった。

自己と向き合うこと。現実と向き合うこと。そして気付くことは傷付くということ。その生きる勇気や死ぬ希望を短歌という形として残すにはエネルギーが必要であり、そうやってこころを削ってできた歌たちは、評価される出来のものでなくとも良歌でなくとも、すべて僕の子供だ。足あとだ。これまでとこれからの人生だ。ときに短歌そのものが自傷めいた存在になり得ようとも。

すきだからとか、楽しいからだとか、それだけの枠に収めるにはあまりにもったいなさすぎるし、その場しのぎの安易な言葉ではそんな枠は簡単に決壊してしまう。ばしゃばしゃとあふれた短歌への思いが行き着く先はおそらくだれかを傷付けることだろう。

僕はまだ短歌を手放せないし、これから先もそうすることはできないと思う。僕が持てる唯一の武器が短歌。なにひとつ長所と呼べるものを持ち合わせていない僕の武器。ナイフや短銃のような存在の武器。それが短歌。たとえ自分を傷付けるものであっても。失いたくない。失うのがこわい。失ったあとのことを考えたくないし、考えられない。

だから僕はもがいてもがいて、足場を崩しながらここまでやってきた。自分を傷付けながら自分をかたちづくるものとしての短歌。そのための傷あと。それさえ愛おしい。 

短歌に救いはないという言葉。しあわせになることはないと分かりながらもずっと短歌をつくり続ける僕は、いずれ窒息死でもするんだろうな。いいよ、短歌に殺されるなら、それもいい。死因、短歌。来世来世。