遺書と恋文

頭痛腹痛毘沙門天

弱音の墓

すくなくとも僕にとって弱音を吐ける居場所は家じゃない。

どういう意図でのことかは分からないけれど、両親は僕ら兄弟に自分の部屋を与えない。それが家庭の方針だ。それはとっくに成人した今でも根深く残っている。まあ自室なり子供部屋なり、個別に部屋を持たないのが一般的に珍しいことであると知ったのはまだ新しい話だが。

空き部屋はいくらでもある。2回の増築の結果だ。経済的にだとか家の構造上だとか、そういう理由で部屋数がないからという問題ではない。使われずそのままになっている部屋が何室あることだろうか。ただしそれらを自分の部屋にするのは許されず、両親の目の届く範囲で生活しなければいけない。自宅にいながら解放されるのはお風呂場とトイレだけ。だけ、と言えど、窮屈を嘆きながらもそのあたりにはまだ救いがある。いや、無理にでもそう思わないとそれこそ救いがない。

毎日毎日、母もしくは父と同じ部屋で寝る、同じ部屋で勉強する、同じ部屋で電話をする、同じ部屋で作業する。この記事を書いている今もだ。ひとりきりの空間もひとりきりの時間もなく、小説一冊だって集中して読めやしない。父による何かにつけての騒音は耳栓を使って耐えるしかないし、母の機嫌が悪ければそこからくる八つ当たりも甘んじている。そのストレスをどうにもできず自傷行為をしたことなんてもう数えきれない。まあそれすらお風呂もしくはトイレだけど。リストカットオーバードーズを嫌う両親が原因でそれをする、なるほど、なんて滑稽なことだろう。

同じ空間にいるがゆえに感じる窮屈さを挙げ始めればきりがない。親の機嫌次第で居心地の悪さが左右される。気分が塞でいるとき、ついこらえきれず泣いてしまっては叱られる。友人と電話でどんな会話をしているか筒抜け。ひどいと交友関係にまで干渉する。そういったものとうまく付き合っていかなければと思いながらも未だ慣れることはない。

個別の部屋を与えず言動を把握するのはいわゆる過干渉というものだが、親との距離感が一般的と言えないことだと知ったのも自室の有無と同じでまだ日が浅い。ただ、それをはっきりと確信したとき、僕のなかの「普通」がぐらりと傾いた。

兄と弟と僕。3人のなかで取り残された僕が手放してもらえないままここまで来てしまった。兄弟は僕よりずっとずっと先に「普通」の揺らぎに気付いて早々に手を打ち、それぞれの距離を置いた。兄は大学卒業後に今の伴侶である恋人との同棲を理由ときっかけにして、両親からのはちゃめちゃな反対を押し切り実家を出た。学生の弟は寝に帰っているだけ。同じ家に住みながら顔を合わせなくなって久しい。早くお金返してくれないかな。

親と過ごすことで感じる居心地の悪さや不満、そして今後の不安、それらを知らんぷりする言葉は「ルールだから」。魔法の言葉だ。あるときは親の言い分に、あるときは自分の落としどころのために。どこで降ろしたらいいかわからない荷物を持ちながら繰り返しそう言い聞かせている。そのルールが異常であろうとも、僕が両親の子供である以上、何歳になっても子供は子供だし親は親。それが呪いのようにつきまとう。

兄みたく諦観をエネルギーとして走っていくのはそうやすやすとできることではない。兄は親を切ってしまってもうまくやっていけるだけの処世術や人望、人柄を持ち合わせているだけであって、僕が同じことをしてしまえば「独立」ではなく「孤立」になることは目に見えている。真綿で自分の首を絞めることになるだろう。

両親にとって秘密とは悪なのだ。日々、父であったり母であったりが僕の言動に目を光らせる。まるで看守だ。だとしたら僕は囚人じゃないか。Twitterでは「よくオフ会をする人」とフォロワーたちが認識しているし、間違っていない。だがなぜそうであるかというと、囚人の僕が看守の目をかいくぐれるのはネットの知り合いと食事をするなどの時間くらいだからだ。

秘密を悪としているように、両親は涙までも否定されるべきものとしている。助けてともつらいとも言えずに、自分の居場所だと思いがたい空間で涙をこらえ過ごしている。どう訴えても無駄だろうけれど、家でくらい手放しに泣くことを許してほしい。現実には泣いている、泣いていたのを隠すことがうまくなっていくばかりだ。

家族と縁を切ることを考えていた時期もあった。ところが家族との縁は切るのは簡単でも、それが自分にとっても両親にとっても良いことかと言われると、僕は断じて得策だと言わない。今現在は実家にいるもののルームシェアをしてみたことで(まだ解消はしていない)、物理的に親元を離れることについて向き合った。わかったのは住む場所を変えるだけの、そんな単純な話じゃないということ。このことは分かってもらえない人には一生理解できない。

「親からの束縛がしんどいなら家を出たら?」「もういい歳なんだから親元から離れたらいいのに」

もしこれを読みながらそんなことが言えるのなら、それはあなたが恵まれた人間だからだ。呆れるなり小馬鹿にするなりすればいい。大きい声で主張し、正論を言ってやったぞと満足するなら、僕と僕の話、環境を殴ることで勝手にそうすればいい。そう言える自分を高尚な人間だと思い続けたらさぞしあわせなことだろう。

どこでなら、だれの前でなら弱音を吐露していい?嗚咽を漏らす勇気もないまま居場所と現実から目をそらす僕はふわふわと根無し草のようにたゆたい、そのしわ寄せとしてこれから先もたくさんのものを失っていくのかもしれない。