偽物も本物も - 2

薬を飲むことで作為的につくられた幻聴にすこしの恐怖と、それと比べ物にならない高揚感があった。

 

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捨てなかった空き瓶が見つかったのがこれを書くきっかけ。処分する前に記念撮影。

 

脳の内側へだれかが話しかけてきた矢先、その次は身体そのものに影響が出た。立てなくなった。力は入らないし、体幹がふらつく。障害のせいで足が弱い僕だが、ある程度酔ったりラリったりしていてもそのくらいは平気なはずなのに。

トイレに行こうと横になっていた体を起こそうとしても、立ち上がって歩くことはおろか、力が抜けるわ平衡感覚がないわでまともに四つん這いにさえもなれない。3-4歩進んだところで体が倒れる。起き上がって四つん這いになっては倒れ、また起き上がっては倒れ…と繰り返して必死の思いでトイレに辿り着き、便座に座った。それでも上半身はぐらりぐらりと揺れる。やはり部屋に戻るときも赤ん坊のように"ハイハイ"をしながら向かうしかなかった。

このときになって自分の体が異常であることをようやく自覚した。でも、僕の好奇心はまだまだ枯れずにいる。後遺症が残るかもしれないという不安が一瞬よぎったものの、目の前にまだ残っている錠剤を見たらそんなものどうでもよくなってしまうほどに判断力が鈍っていた。そしてくだらないチキンレースでもあった。

 

次第に変化していく視界と感覚と意識が早送りでやってくる。

両手の爪が絵の具で塗ったように真緑に染まった。部屋の隅で老婆が胡座をかいてこっちを見ていた。動物を飼っていない自宅で数匹のネコが走った。天井は崩れ、壁は倒れた。だれかが笑っている。叫んでいる。命令している。

 

それらとほぼ同時に呼吸をするのが苦しくなった。喉が詰まって、浅く浅く、細いホースから空気を出し入れしているような。少しずつ息を吸って吐いて、相変わらずまだ聞こえるだれかの声にぼそぼそと返事をしていた。

それから感覚の過敏。すこしの刺激、たとえば髪が肌に触れるとかTシャツが擦れるだとか、そんな些細な刺激に逐一声をあげたり体を大きく揺らしたりした。逆に、試しにと自分の体を叩くだとかつねるだとかをしても、そういう痛みのようなものには反応しなかった。なぜか「ふわり」「さらり」と撫でるような感覚にだけ仰々しく驚いた。蛇足だがこの感覚過敏もジフェンヒドラミンの作用で、媚薬に使われるんだとか(Gが見える云々と同じくネットであとから知った。胡散臭い)。

薬を用意したときに何があろうとも病院に駆け込むまいと意志を固めていたが、平衡感覚の衰えや感覚過敏といった初めての経験の諸々が途端に恐ろしくなった。たとえその処置が苦しくとも早々に胃洗浄をすべきだろうかと悩んだ。だが、薬で遊んで救急車を呼ぶなんて迷惑すぎるだろ、自業自得だろ、血税だぞ、と改めて覚悟してうずくまりながら真緑の指先を握った。

ODではなく、病気由来の幻聴のためにと処方されているエビリファイを一応飲んだが意味はなかった。いつまでもいつまでも頭の中が騒がしくて、何が厄介って、きこえてくる声のうちのいくつかは現実のものだと思っていたことだ。

深夜に家の中で他人の笑い声がする?罵声を浴びせながら質問責めをしてくる?ひそひそと相談し合う?狂気の沙汰だ。

それでも僕はその狂気から本物を探していた。狂気のなかの本物が、懲りずにレタスのODを繰り返した愚かしい僕を救ってくれる気がして。

 

しかしついに狂気が悪意を持った。

男とも女とも、いつも現れる男とも部屋の隅の老婆とも知れない人影が、だらりと壁に身を寄せていた僕に包丁を突きつけた。もう一度言うがその"おそらく人間である人影"は誰かわからない。顔も背格好もわからない、見えない。けれど包丁の刃先を僕に向けていることだけは明らかだった。もう偽物も本物も、あちらもこちらも、何もかも失っていた。そしてこれからわずかに残ってる何かさえもすべて失うのだと思った。

そのとき、パッと部屋にあかりがついた。同じ寝室で毎晩のように騒音を立てるからと日ごろ疎ましく思っている父が照明をつけたのだ。途端にすべてが消えて包丁を持った"何か"もいなくなった。

(そんな覚えはないが)僕が騒いだから起きたのかもしれない。いつものように同室の僕に構わず自分の都合で部屋の電気をつけたのかもしれない。そんな父は冷凍庫から持ってきたアイスクリームを黙って食べていた。僕は何も言わないでいる父のとなりで泣いた。

薬の本来がもたらす成分を"実験"のつもりで使った仕打ちが、存在しないものからの殺意としてガツンと振りかぶってきたこと。現実だろうが何だろうが、今まで見たことのないものばかりが堰を切って襲ってきたこと。それらに太刀打ちできる方法が分からないまま情けなく体を丸めていたこと。ただただ怖かったこと。僕は日が昇るまであかりをつけたまま眠った。

 

レスタミンはもうODしない。それでも僕は未だに薬のオーバードーズをやめられずにいる。いつまでもいつまでも人間は何かに依存する。苦しい現実をごまかす方法や道具を欲しがる。身を滅ぼす好奇心にのまれる。僕もそのうちの一人でしかないと、ただの抗アレルギー剤によるODで思い知らされた。

偽物も本物も - 1

レスタミンという薬をご存知だろうか。

"本来ならば"湿疹などのかゆみを抑える抗アレルギー剤として市販されている。しかしジフェンヒドラミンという成分が作用して、服用の仕方や量によっては合法的なドラッグとして使うこともできる。今回の記事はそのレスタミンで地獄を見たという話。

僕はレスタミン、通称レタスを5回ODした。以下はあくまで僕の経験談なので、たとえ興味を持とうとも自己責任で試してほしい。試したくなるような内容ではないとだけ断っておく。

初めてはブロンとアルコール、それから念のため吐き気止めとを併せて飲んだ。

ちなみにブロンとはドラッグストアで買える咳止め薬だが、これもまた用法用量によってはドラッグ的な使い方ができる。含有されているコデインリン酸という成分が多幸感をもたらすそうだ。「ブロン OD」だとかで検索すれば中毒者は大勢いる。もっとも、僕はSSRIに分類されている精神薬を飲んでいるからか体質の問題か、はたまた違う理由かは分からないが3瓶飲んでも効果がなかった。糖衣錠だから甘くておいしいな〜ともぐもぐ食べただけだった。なーーーにが「おやすみ世界」じゃ。

そういうわけでレタスを半瓶(60錠ちょっと)、ブロンをひと瓶(84錠)、シロップ状のブロンを一本、買ったばかりのボンベイ1本とストロングゼロのロング缶1本。処方薬はさておき市販薬を大量に、それも100錠を優に超える量を飲もうとしたのは初めてだったものの「こんなに飲んでも大丈夫かな…」なんていう不安は全くなく、味わったことのないトリップへの期待ばかりで胸が高鳴った。

結果、失禁しただけだった。深夜それらを飲んでそのまま眠り込み、翌々日の日中に目が覚めた。それだけだった。LINEの履歴には知人への怪文が残っていたが。あのときはごめんなさい。

2度目は吐いた。急に吐き気をもよおしたので、すぐそばにあったゴミ箱に吐いた。吐瀉物まみれのゴミ箱を洗ったときのやるせなさといったら。そのときリアルタイムでフォロワー数人とグループ通話をしていたのでもちろん音や声は丸聞こえ、しばらく「ゲロリスト」「ゲロゲロゲロッピ」と茶化された。

3度目はレタスひと瓶(120錠)のみ。いや、アルコールもだったかな。薬を飲むときはだいたい酒も飲んでるから。安定剤や眠剤は混ぜないでおいた。

ここでやっと初めて幻覚を見る。主に虫だ。

僕がたまに脳みそをバグらせて経験する幻覚では虫を見ることはなく、だからそのときはうごうご体をくねらす芋虫を幻覚だと認識できずにいた。見知らぬ大男もいた。暴れに暴れ、力尽きて眠るまでそれらの芋虫や男と戦った。

4度目もひと瓶をやはりアルコールと。前回と同じで芋虫と男がいたから、今見ているものはすべてまがいものだとたかをくくった。暴れることもなく騒ぐこともなく、かと言って気持ちよくも楽しくもなくゆっくりと薬は抜けた。


5度目で僕はもう二度とこの薬では遊ばないと誓った。

 

うまくいかないトリップにしびれを切らしこれまでよりも多い量を用意した。アマ×ンで買ったレスタミンをふた瓶きっかりの240錠、それらを1-2時間かけて定時ごとに少しずつ飲んだ。小さい錠剤なのでそのくらい一気に酒で流し込めるが、そうしなかったのは何錠でどんな症状が出るかを書き留めておきたかったから。今思うと治験のバイトでもしたほうがよっぽどいい。どこまでもバカだ。

まず幻覚が見えた。特に新鮮味はなかった。

のちのち体験談をググるとGが見えたとか何だとかいうブログ記事がいくつか出たけど、僕の場合は腕や床、壁に芋虫がびっしりと這った。いくら払いのけてもすぐ湧いてくる小さな芋虫の群れが。とは言え虫嫌いの僕が絶叫することもないくらいには出来が悪く、同じく2m以上ありそうな大男も特段恐ろしいとは感じなくなっていた。

ぼんやりぼんやりと"幻覚を見ている"という意識を持ちながらちらちら時計を見る。定時になるたび決めた分の量の薬を飲みつつネットをしていると声が聞こえた。

 

頭の中から声がする。

 

何と言っていたかそれこそ肝心なことを書き留めていないけれど、そのときネットでやりとりしていた相手に「それもういらないから片付けておいて」とメッセージを送信した。もちろん相手は「何が?」と訝しがっていた。

何でこんなことを送ったのか自分自身分からないまま、僕は慌てて「ごめん、誤爆。間違えた」と返信した。しかしそのあと何度も同じようなことがあり、誤字も目立ち、果ては支離滅裂で文章にならない文章ばかりを送った。「また酔ってんでしょ。いつも飲み過ぎ。もう寝たら?」と、そこでやりとりは途絶えた。

酔っている?ちがう。幻聴だ。僕はこの感覚を知っている。ただこれに限ってはつくられた幻聴だが。そのとき既に、今まで平気だった服用量のキャパシティを越えていたのだと思う。

 

これを皮切りに僕はあらゆる境界線を歪めてしまうことになる。

踏切の画像

中学1年生の春休み、僕はネットで知り合った人と会うことになった。

以前の記事で書いたようにあまり学校へ行かなくなっていて、そんな日はガラケーで撮った空の写真とそれに添えてある中身のないポエムで埋まるブログをひたすら徘徊していた。どうと面白くも、ネタにもならないような「イマソラ」写真を見ては、みんなして自分の感受性をアピールするのに必死なんだなと思いながらクリックとスクロールだけを繰り返していた。そんなしょうもないブログを漁るくらいには青春と呼ばれる時期を持て余していた。

そんななかでふと目に入ったブログ記事はとても淡々としていて、どう思ったかなんかは一切なく、何が起きたかをただただ書き連ねていた。言うなれば報告書。僕が国語教員だったら注意するような文章だ。なのになぜか言葉選びに惹かれる。そしてシンプルな文章のなかに日常的な物語を綴られることが羨ましかった。今も昔も、僕はいらない修飾語を遣うから。

プロフィールに個人サイトのURLがあった。マイナーとはいえ僕にとって当時の情熱と青春を捧げた作品のサイトを通じてその人とメルフォで会話するうちに、メールアドレスを交換するまでになった。ブログ兼サイトの主は女性で、文章とは裏腹にメールではよく話す子だった。絵文字や顔文字もたくさん使っていた。僕はと言うと、なんだか恥ずかしくて)^o^(と(T_T)しか使えなかった。

彼女は専門学生で、演劇を学んでいるそうだ。公演があるたび画像をくれたし、友達とのプリクラも見せてくれた。僕は自分のことをほぼ一切話さなかったのに。「これがわたし」と教えてくれた彼女はハムスターのようで、目をはじめとした全てのパーツが大きい、年齢の割に幼い顔つきの女性だった。

ちなみに僕は「高校生?」と聞かれたので、馬鹿正直に「中学1年生」じゃなくて「高校は卒業しているけどまだ未成年」ということにした。4-5歳上の兄のところからそっと借りていた音楽がちょうど彼女の趣味にヒットしたのがうれしかった。少し近付けた気がした。

やりとりを始めて1年近く経った頃、住んでいる地域が分かった途端、彼女は僕に会いたいと言ってくれた。近いみたいだ。年齢を詐称していたことがバレてしまうことを覚悟した上で僕はそれを快諾した。一度、液晶越しじゃない彼女に僕も会ってみたかった。

〜〜時に〇〇駅の△△前ね、と2人の中間地点になる大きな駅で集まる約束をした。僕は当時お気に入りだったチャンピオンのパーカーを着て、靴は買ったばかりのVansにした。先に服装を伝えてしまうとそのまま帰られてしまうかもしれないという不安があったので、彼女が到着してからどんな格好をしているかと特徴をメールすることにした。

少し早く着いてしまったとはいえ、約束の時間を過ぎてもなかなか彼女から連絡はなかった。

何かあったのだろうか?

(知る限りの彼女はそんな性格とは思えないけど)ブッチされたとか?

ドタキャンかも?

遅れてでも来てくれるなら待とうと、僕は近くのカフェに入った。カフェラテを飲み始めてすぐ彼女からメールが来た。僕は飛び付いてメールボックスを開くと、自殺をほのめかす内容と、踏切の画像が添付してあった。

「遅くなってもいいから待ってるよ」とだけ返信して携帯を閉じた。心配するような文言やそれに至る経緯を聞くために寄り添うのは違った気がした。それから彼女からの返信はなかった。3時間ほどカフェで過ごし、もう1-2時間ほどあたりをうろついた。陽は落ちて夕方になっていた。「ごめん。帰る。また別日に会おう」と帰りの電車のなかで送った。返信はなかった。その翌日も、翌々日も。ブログやサイトの更新も止まった。

僕はこの件で改めてネットで繋がる人間との関係の希薄さを思い出した。これが顔も本名も身分も知らない人間と関わることだと。サイトのメルフォを介さず、下手に個人的に連絡を取り合ってしまったのでそれをすっかり忘れていた。僕は彼女の安否さえ知る手段がない。その日のその時間帯で起きた人身事故を調べればわかるけど、そういうことじゃない。

もし、もしだけど、待ち合わせの時間が少し違えば。自殺企図は衝動的にくるものであり、もし30分早く、30分遅く、待ち合わせの時間が違ったら、少なくともその日いちにちを彼女は生きていたかもしれない。いつか結果的には自ら死を選ぶ日が来るとしても。

 

今、彼女は生きているだろうか。名前を変えてネットのどこかにいるだろうか。ブラック・ジャック並みの整形を施したような全くの別人としてたゆたっているのだろうか。不思議な文章を書き演劇で食べていくことが夢の女の子は。

 

 

という夢の話。そう、夢だ、夢なんだ。だから早く忘れなきゃ。こんな夢はもう二度と見たくない。

 

同級生たちへ

何かのインタビューだったかで読んだ。バンド、THE BLUE HEARTSのボーカルの甲本ヒロトが学校に居場所のない子どもについて言及していたこと。

「居場所ならそこに席があるだろ。たまたま近所に生まれて、たまたま年齢が同じ子どもが部屋に集められたのが学校のクラス。電車の車両で、そこに居合わせた全員と仲良くなれと言われたって友達なんかじゃないんだから無理なことだ」

うろ覚えだけど、そんなコメントを残した。

 

小学5年生から中学3年生までの5年間、僕はいじめを経験した。中学校に上がれば他の小学校から4校集まるので、きっと鎮火するだろうとそれを希望に小学生時代の2年間を我慢した。事実、小学生のときの主犯たちはもう僕のことなど眼中になかった。彼らは新しい友達に初めての部活にと新しい環境を謳歌していた。

しかし進学してすぐ、4月の時点で他の小学校の生徒からいじめに遭うことになる。どんなものかというと“いじめ”と聞いて想像するようなよくあるものだ。

トイレに立つと机に入れておいたペンケースが空っぽで、教室のあちこちに隠されているからそれを授業と授業のあいだにある休憩時間いっぱいまで探した。朝登校すると、机の上に黒板消しをはたいたようなチョークの粉が舞っていた。バケツでかけたんだろうと思うけど、自分の席が水浸しだったこともある。机そのものがなくなったときはさすがに狼狽えた。その頃から僕は離席するたび通学カバンを持ち歩くようになった。内弁慶で、外では小心者な僕はそのことを笑われようと足を引っ掛けられてその姿で転ぼうと何も言えなかった。

翌年度のクラス替えで主犯たちメンバーとクラスが被らなかったことに安堵していた矢先だ。多分、中学2年生のときが僕にとっては精神的に来るものがある苛烈な1年間になった。そこそこ友達もできて、周りの生徒も属するグループが固まってきたころ。僕は風邪で学校を欠席した。

翌日「おはよう」といつも通り挨拶をして教室に入ると、誰一人として反応しない。聞こえなかったかな?くらいにしか思わなかった。ちがった。1日休んでいる間、僕の知らないところで何かあったようだ。その“何か”は未だに知らないし、未だに心当たりはない。いじめなんてそんなものだ。多分。

 

僕は空気だった。空気でありながら病原菌だった。病原菌でありながら言葉の通じない異国の人間だった。

 

当時の担任までが加担していたいじめだったけれど、持ち物がなくなるより、それらが盗まれたと分かった上で忘れ物が多いだ何だと担任のネチネチした小言より、グループワークや体育の「二人組をつくって」という言葉より、仲良くしていたはずの旧友の反応が何より悲しくて悲しくてつらくて、多感な時期にいた僕を死にたくさせた。

ふと廊下でその彼と肩が当たってしまったことがある。僕は「ごめん」と軽く頭を下げたが、彼は目も合わせずそそくさと気まずそうに何の言葉もなく去っていった。形容し難いけれど、あのときの彼の表情はまだ忘れられないでいる。僕と会話することでさえ自分に危害が及ぶからだとすぐに分かった、分かったけれど、理解はしていても、つらい気持ちに変わりはなかった。今まで何をされたって気付かない振りをしていた僕だったが、その日初めて体調不良を理由に早退した。

それからはぽつぽつと欠席や遅刻、早退が目立った。登校しても保健室で1時間だけ横になって午前のうちに帰るのも当たり前になっていた。父親は仮病だとブツブツ言ったものの母親は理由を聞かずにいてくれたのが唯一の救いだったが、他人にきらわれているからなんて情けなくて申し訳なくて言えなかった。ちなみに母が当時の欠席などの理由を知ったのはまだ数年前のことだ。泣かれた。

卒業まで何があったかはあまり思い出せない。せいぜい家を出ても近所の公園で警察官に見つからないよう警戒しつつブランコを漕いでいたことや同じ中学の同級生がいない塾にだけは行ったこと、ネットに入り浸っていたことくらいだ。すっかり趣味になってしまった短歌にのめりこんだのもその時期だった。救いがほしかったのだと思う。

高校はバス通学をして、地元から少し離れたところを選んだ。同級生は僅かながらいたものの、小学校から中学校へ進学したときと同じようにそれぞれの生活ができあがっていったので、当時ほかのクラスにまで尾ヒレのついた噂が広まっていてたくさんの生徒から避けられていたことも何の問題はなかった。それから3年間、友達ができて恋愛をして、部活に励み大学受験を経て進学した。

僕はもう彼らを憎んでいない。憎んではいないけれど忘れない。忘れてなんかやらない。その傷跡は僕が生きた証にさえなっているから。何事もなければおそらくこれから何十年と生きなければいけないわけだけど、きっとこれから先も忘れはしないだろう。昔のことをずっと根に持っていることは「ダサい」し「格好悪い」けど、僕にできる唯一の復讐だ。いつまでも僕に呪われればいい。存在そのものを馬鹿にしてコケにして、時間や気力をふんだくった僕に呪われればいい。

 

今すぐに死ねなんて言わない。最低限の生活水準で、苦しみながらギリギリをもがいて生きてくれ。そして僕はそんな彼らに縛られながらもしあわせになってやる。絶対に。拝啓、あのころの同級生たちへ。

社会復帰して1週間

例の2/1からの仕事が始まって1週間が経った。3年近くぶりの労働だ。初日が金曜だったので、土日を挟んでくれたのはラッキーだ。

地方と言えど一応公務員なので、「市民のお手本になるように」と無理のない範囲での仕事を与えられている。また、同じ理由でパワハラなんかも一切ない。最高だ。

配属された部署は窓口業務がないので尚のこと安心して仕事ができている。僕の課には保健師が3人いて、そういう課なわけだから特に体調に関して(身体的・精神的な意味での)の気遣いもしてくれている。障害者の僕としては有難い。目に見えて誤魔化せないので身体に関してはオープンにしている。ちなみに精神はクローズで、保健師である彼女たちしか知らない。 

最初は不満が何点かあった。前職のIT企業に比べると喫煙やスマホの使用、ゴミの管理(部署ごとで一つの袋にしないといけないのでゴミ箱が一つしかない)などが厳しいからだ。前職では音楽を聴きながら作業している社員、pcよりスマホを触る社員、社内チャットのグループでエロ動画を送りつける社員など当たり前にいた。応援しているアイドルの曲がUSENで流れるとその人のメッセージでチャットが埋まった。

小規模なところへ配属されたので、初日は仕方ないにしてもこの1週間は比較的ココロ・オダヤカに業務を終えることができたと思う。「すみません〇〇さん、あの…」と言い出すときに声がまだヒュッとしてすぐに出ないのは変わらないし、たまにカオナシになるし。今お手隙ですか?と聞くタイミングも、間違えたらどうしようと怖い。でも、どれも徐々に慣れていきたいと思っている。

先述したように、保健師さんたちには自分の精神的なアレなことに関しては伝えてある。守秘義務が徹底されているので係長や課長も知らない。でも彼女たちがそれを知ってくれていることに安心できる。今僕はフラットな気持ちでいられているので、これが普段の「まぐ」と考えてもらい、それより上がってきたらドウドウと宥めて注意してもらえるようお願いした。饒舌になったり(怒ってないのに)怒っているような話し方になっていたり、それでトラブルを起こすのはもうごめんだ。

ちなみに解離とボダは治りつつある?のかもしれない。もしそうなら僕が立ち向かうべきは躁うつのみだ。どうせ死ぬまでの付き合いだし寛解はあっても完治は期待していないから、せめてほかの疾患が抑えられているみたいなのでよかった。

職員さんと話しているとき「働こうと動いたときは勇気がいったでしょう」と言われ、僕は心がふるふると、泣かないにしてもそういった感覚になった。そうなのだ。春から秋口にかけて転職活動をしても、お祈り、お祈り、お祈りばかりだった。サイレントお祈りとかいう文化、◯ね。10月になる前には“休憩”という口上ですっかり就活をしなくなっていた。応募しなければ、受験しなければ落ちないんだから、もういっそ就活なんてしたくない。今の仕事だってそうだ。落ちたら、また社会から「自分はいらない人間だ」と突きつけられる。期日ギリギリまで悩んだ。

 

そんなこともあったが、まずは1週間終わった。前職でも最初は順調だったから気は抜けない。まずは年度いっぱい、ここに籍を置いていること。次は前職が5/31での辞職だったので、6/1にもデスクにいること。そうやって少しずつ目標の目安を持っている。

 

母には昔、初任給でちょっとお高めのハンカチをプレゼントした。今回はそれとすやの栗きんとんを買って帰るつもりだ。

命日

大学を卒業した年の夏、僕は飛び降り自殺をした。
厳密に言えば自殺未遂。後遺症が残ったものの生き残って、今こうして呑気にブログを書いている。


ODを経験した。リストカットを経験した。でも、どれも死ぬつもりは微塵もなかったし、死ねるとも思っていなかった。南條あやが自傷で亡くなったのは日常的に瀉血をしていたからで、薬やリスカのせいじゃない。


少しずつためた安定剤と眠剤を合わせて何十錠かをおつまみに焼酎と飲んで、気持ち良くカッターでざくざくざくざくざくざく腕を切っていた。


言っておくがどれもコンテンツではない。ストレスを発散する方法が分からない僕の唯一の現実逃避で、また唯一の救いだった。薬の量には限りがあるからそのあたりは適当に調整して、足りなければ市販薬も服用した。


22歳、新卒でIT企業に入社した。
しかしたった2ヶ月間で退社した(※理由や経緯は1/28の記事を読んでね。リンク貼らずにごめんなさい)。


6月に寝たきりの無職期間を経て、 7/8に僕は飛び降り自殺をした。前日が父親の誕生日なので、最高のプレゼントになりかけた。ODやリストカットとは全く別物の、純度の高い希死念慮だった。


自宅は3階建てだ。そして飛び降りたのがその屋上。ビルだとしたら1階分が約3mで、まあ屋上の分を含めると10mちょっとしかなかった。


後々知ったが、完全自殺マニュアルによると最低8階の高さが必要なので、よほど上手く落ちなければ死ぬには到底足らない。でもそのときの僕は衝動的に自殺を選択したので、そういった知識も、それからこの程度の高さじゃ死ねないんじゃないかななどという冷静な判断、そういうものがなかった。


その日、空は曇っていて、じめじめと蒸し暑い日だった。父親はとっくに仕事のできない精神状態になって寝たきりで、母親はいつまで経っても家の外で働くことを拒んでいた。だから両親は家にいた。


僕は100均の付箋に遺書のつもりで「来世」とだけ書いて、屋上に向かった。遺書ということは完全に衝動的ではなかったのかな?ぺたぺたと裸足でのぼる階段が、いやに冷たかったことを覚えている。


そのときの格好はTシャツと短パンにサンダルを履いていて、タバコだけを短パンのポケットに入れていた。吸い終わったら生きるのも終わりにしようと思って。


10分もなかったかな。安タバコの吸い殻を脚で踏み潰してサンダルを雑に脱ぎ散らかした。映画とかでよくある、フェンス越しに足をかけるような構造の屋上ではなかった。だから腰より少し高い壁を、ガードレールを飛び越えるようにして、僕にとっての生と死の境界を越えた。


それからの記憶はない。
全くない。


気が付いたらギラギラしたショッキングピンクの部屋にいて、螺旋階段に弟がいた。手を振っていた。薬を服用していないのと麻酔のせいでの妄想だけど。僕もそれに応えて振り返した。拘束されていたから無理なので、それも妄想だ。そのあとのことはまた覚えていない。


ドン!!と音がしたらしい。近所の人が聞いていた。通りがかりの人が、コンクリートに打ち付けられて口から血を吐く僕を見つけてすぐに救急車を呼んだ。パトカーも3台来たんだとか。そんなことも知らない僕は自身の痛みさえ覚えていない。人間は激痛を感じると自己防衛のために記憶がなくなると聞いたことがあるので、それかもしれない。


僕が運ばれたのは、ACC(高次救命治療センター)と呼ばれる病棟だった。あまり詳しくは知らないけれど、ICU(救命治療センター)は重篤患者を短期に24時間体制で管理して、僕のいたACCは“長期”にと、その違いだった。実際1ヶ月半ほどいた、らしい。時間の感覚が何も分からなかった。


口を覆う形をした呼吸器ではなくて、ホースのような管が気管に入っていた。当然、声は出せなかった。最低限の会話はミミズののたくった字での筆談で行われたものの、体位交換だのの伝えなければいけない内容の半分、いや1/5も伝わっていなかった。もちろん経口での食事は摂れず、点滴で栄養と薬を摂っていて、喉の渇きさえなかったのは今でも不思議だ。そういうものなのだろうか。


全て精神科へ転科してから聞いた話だけど、運ばれた日を含めて4回の手術をした。バッキバキに骨折したところを支えるためのボルトを入れたり、肝臓や胃の穴を塞いだりしたそうだ。

↑ 1年後に抜いたボルトの一部。これらがパズルみたいに組み合わさって体に入ってた。まだすこしだけからだに残っている。


そのときの僕は体じゅうのあちこちに何本も管がつながれていて、それらを自力で脱いてしまわないよう両手足を拘束されていた。まあそんなことできるような筋力や体力や思いつき、諸々はなかったのだけど。


もともと処方されていた眠剤ロヒプノールが与えられなかったことと逃げられない痛みと、それから追い討ちをかけるように、床ずれを防ぐため看護師が寝返りの打てない状態の僕の体を一晩に何回か動かした。ACCにいた1ヶ月半のほとんどは2-3日に2時間くらいのうたた寝をするという生活を送った。まあ、一日中ベッドから動けなかったので、別にいいのかもしれない。定時の食事の時間だってないし、狂うも何も生活リズムがない。30分くらい経ったかなと、動かなくされた体をくねらせて時計を見ても、まだ5分くらいしか経っていなかった。


病室でのレントゲン撮影や手術のためにストレッチャーへ移されることだけが、1日350時間くらいあるんじゃないかと思わせるそのときの僕にとって激痛を伴おうと、ある意味ありがたいイベントだった。慢性的な痛み・術後麻酔が切れたときの経験したことがないほどの痛みと同時に、時間の経過と戦っていた。


ときどき、別室の患者さんが亡くなったことを面会の母親から聞かされた。不謹慎だが少し羨ましかった。


ほかにもいろいろあったみたいだけど、僕は知らない。覚えていない。眠剤と同じようにもともと服用していた薬を点滴でもらえなかったので、あらゆることが曖昧だ。もちろん麻酔のせいもあるだろう。幻聴幻覚ばかりに囲まれて、まともな記憶はほとんどない。


一人部屋なのに赤ちゃんが泣いていたり、老人と少女が口論をしていたり、部屋いっぱいに灯篭があったり。おかしな病棟だなあくらいにしか思わなかった。赤ちゃんの泣き声に関しては筆談でうるさいと看護師に伝えると
「"そういう病棟"だから"そういうこと"もあるんじゃない?」
とあしらわれた。そういうことらしい。いや、現実的に考えて薬のせいだ。


4回の手術を終えて、気管に入っていた呼吸器を抜管して(オエッッッッッと声が出た)、一番重篤な患者が幽閉されるナースセンターの目の前の病室から移動した。それからしばらくして、今度は精神科の閉鎖病棟に幽閉され地獄を味わうことになる。これはまた身バレしない程度にいつか書こう。


結果、僕は精神障害に加え、脊髄損傷という身体障害を負うことになった。その後遺症は神経などから来ていて説明が面倒なので、もう細かくは書かないでおく。

↑ 自力で排泄できないのも後遺症のひとつで、この使い捨てカテーテルで排尿する。左が女性用で右が男性用。細さと長さがちがうのだけど、男性が左のを使うとちんこのなかに入って取れなくなるから手術しないといけない。こわっ……


リハビリを担当したPTやOTからは、なぜその損傷レベルで足が動くのかと不思議がられた。そんなこと言われたって知らない。ちなみに退院して1-2年もすれば全快すると思っていた。脊損という障害を知らなかったし自分がそうだと知らされなかったから。


リハビリの甲斐あって立ちも歩きもできるようになった。でも、立ったまま静止できないことも、尿意便意を感じないことも、下半身に痛覚や熱感がなくて怪我に気付かないことも、そのほかにもそれらすべてが十分不便で、今後死ぬまで付き合っていかなければならない。


今、自殺を考えている人に伝えたいのは、死にたいなら確実な方法を計画しておけということ。そうでなければ僕みたいに、生きづらい人生を自分で余計に生きづらくさせてしまうから。自殺教唆ではない。


ODによる胃洗浄で死ぬほど苦しい思いをした知り合いも、首吊りで半身不随になった知り合いもいる。うまいことやった知り合いもいる。人身事故の情報やニュースの報道と最後のツイートから死んだことを推測されたTwitterのフォロワーもいる。


自殺は確実に。
しあわせ自殺計画。

幽体離脱を試した話

ロシア文学宇宙論が大好きな、定年を迎えた高校のときの教師(以下T先生)が、卒業して数年後にLINEのとあるグループチャットに入らないかという旨のメッセージをくれた。その教師とは共通の趣味があったので、卒業後に再会した際に連絡先を交換した。


招待されたのは宇宙開発研究部という名前のグループ。メンバー(そこでは部員と呼ぶらしい)はT先生のほかにもう2人いて、5歳年上で同じ高校の同級生だという彼らは先生の教え子だと聞いた。すでに招待された手前、僕の分野外だろうグループ名を見たってもう断ることはできなかった。


知識は一切ないけど、僕は在学時T先生の宇宙論ロシア文学についての話を聞くのはきらいじゃなかった。一度、職員室で1時間ほど熱く語られたときはもう帰りたいという気持ちしかなかったし、ほかの教師が助け船を出してようやく解放してもらったこともあったが。


ちなみにそれらは全く自分の実になっていなくて、たとえばロシア文学の作家といえばドストエフスキートルストイだけという、超超超ド級メジャーな人物くらいしか出てこない。そもそも小説家なのか詩人なのか劇作家なのかそのほかなのかも知らない。「ナントカフスキー」とか「ナントカコフ」ばっかりで覚えられない。ドラニコフじゃん。


※ドラニコフ


入ってすぐとりあえず挨拶をして、あとは黙ってチャットの様子見をしていた。毎晩毎晩そこそこ、いやだいぶ盛り上がっていた。


大体わかったのが、週替わりで部員のひとりが議題を提案して、それについてあれやこれやと議論なり意見なりをするのが主な活動らしかった。あと、オフ会よろしくそういった話題を肴にする飲み会の話もよくあった。もちろん僕は一度も参加していない。

「入ってしばらく経ったね、どう、まぐさん」

と尋ねられて、馬鹿正直に

「話についていけなくてよく分かんないですけど、なんかオカルト研究会って感じですね」

と答えたせいで怒られた。オカ研扱いはタブーらしい。僕からすれば同じようなものだったけど。


入部して何週目かだ。それまで特にレスしなかった僕へ急にお鉢が回ってきた。今まではT先生たち3人が順番に議題を提案していたのに「今週はまぐさんね」と。


困った。特に思いつきませんともパスしますとも言えなかった。時間帯的にすぐレスが流れていくから、早く返さないと…!!と焦って僕が発言したのが、

幽体離脱って本当にできるんですかね」

という話題。宇宙関係ないじゃんと分かりつつも、思いつく限りのそれっぽいものが幽体離脱だった。ところが意外にも反応は良かった。宇宙はすべてで出来ていてすべては宇宙で出来ていてホニャホニャ、だから幽体離脱も宇宙の一部だとかなんとか…もうなんでもありかよそんなん。


T先生はしばらく忙しいから目を通せないよ、とだけ残して未読のままそこでパタリと数日間消えた。それがのちのち問題になる。


なるほどやってみようということになって、議論には参加しなかったけれど、部員の貼った"幽体離脱をする方法"のリンクに飛んでざっくり目を通した。wikiのような形式のページで、項目がたくさんある。咄嗟の思いつきだったので前調べもしなかったから、手段がいろいろとあることさえ知らなかった。臨死体験と同じようなものかしら〜?とだけ思っていた。


一応言い出しっぺなので、早速やってみた。翌晩、寝る前に布団のなかでもう一度そのページを読む。と言ってもさほど興味はなく、適当に上のほうに載っていたやり方にした。手順は覚えていないので省略する。道具や複雑な手段、特殊な環境はいらなかった。


僕は信じやすいかそうでないか、思い込みやすいかそうでないか、特にどちらでもない。本当にできたらチャットが盛り上がるかな〜程度で、できるだけ思い込むようにしたけれど、特別否定するわけでも信じ込むわけでもなくとても作業的だった。


1周目。何も起きなかった。
2周目。やっぱり何も起きない。


自分がふたりいる!みたいなのを想像していたので何も起こらなかったことに拍子抜けした。まあこんなものか、あーあ、LINEで何て言おうかな、ひとつしかやってないって言ったら嫌な顔されそうだしほかにも試して成功例出してみなきゃいけないのかな〜。


という感じでとりあえずその日はもうやめることにした。さて時間も時間だし、寝よう寝ようと思いながら枕元にあるペットボトルの水を飲もうとした。「…………???」


なんだかおかしい。動作がなんだか、おかしい。キャップをひねる→飲みくちに口をつける→水を含んで飲み込む→もう一度キャップをひねる。寝ぼけていてもできるような簡単な動きがとてもギクシャクしている。


次は喫煙だった。
さっきのペットボトルのことは気にせず、タバコに火をつけた。けれど吸えなかった。吸い方をあたまで分かっていてからだを動かしても、それはタバコを吸うことではない、と言えばいいのかな。軽く息を吸いながらライターで火をつける→口に含む→もうすこし深く吸って肺に煙を入れる→ゆっくり吐く。


この動作がペットボトルの水を飲むときと同じように不自然で、むしろそれよりも変だ。何とか火をつけたけど、タバコを持つ手が止まった。寝ぼけながら…は知らないけれど、寝起きのぼんやりしたあたまでもできることがそのときの僕には深く深く意識しないとできなかった。できても、とにかく変だった。スマホを触ったり会話をしたりの片手間にできる喫煙が、じっとタバコを見て、意識を集中させないとできない。何度も言うが、吸い方はあたまにある。でも体がギクシャクする。


不快感から僕はもう半分も吸っていないタバコの火を消した(それさえ意識して、だ)。


翌日、LINEでそのことを報告した。箇条書きにして「離人感"様"の感覚がありました。自分の体が自分でないように感じました。普段する動作に違和感がありました」と打った。T先生の既読は付かないまま、そして僕以外は試していないままその話についてしばらく議論が続く。それに便乗して僕は二度目に同じ方法、もしくはほかの方法をすることをしなかった。面倒なのが半分と、あの感覚が気持ち悪かったのが半分。


ふと僕は、その感覚を以前味わったことに気付いた。安定剤だったか眠剤だったか導入剤だったかをガブガブと飲んだときだ。そのときも自分を自分と思えなくて、それこそ幽体離脱のように(視覚的な意味でなく感覚的に)自分が自分を見ていた。歩くこともぎこちなかった。「離人感様」と彼らには伝えたが、まんま「離人感」だった。でも会話に混ざれば厄介かなあと思ってわざわざ言わずにいた。


週が変わってT先生がチャットに戻ってきた。ログを見たらしい先生は

「なぜそんなことをしたんですか。なぜ止めなかった。遊び半分でやってはいけないことです。誰も、もう二度としないでください!」

と注意した。続けて、T先生は自分が座禅に瞑想、果ては滝行をしていることを話した。初耳だ。というか一線から退いたあとにそんなことをしていたのか…と驚いた。

スピリチュアルなオカルトな、そんな幽体離脱の試みは、それら瞑想などと同様に指導のもと行わないといけないと説明された。そうでないと精神に異常を来す可能性さえあると。どこまでが本当でどこからが迷信かは知らないし確認のしようがない。ただやっぱり離人感は不快なので、二度としない。


それから半年近くグループにいて、部員は増えたし相変わらず会話は盛り上がっていたものの、宇宙開発研究部はもう退会している。部員たちはブロック・削除をした。今ではT先生とだけ連絡が取れる状態だ。


もしこの記事を読んでやってみようかな〜と思った人は、僕が経験した離人感のことを覚えておいてほしい。離人感を味わいたいだけで実行するならT先生の注意を読み返してほしい。そして本当に完璧な「幽体離脱」ができたなら教えてほしい。