遺書と恋文

頭痛腹痛毘沙門天

短歌を始めた友人の話

「短歌をつくってみたくて…」

友人Nくんが短歌を始めた。それまで創作活動をしたことがなかった彼は短歌というかたちで言葉の当事者になった。

短歌を詠みたいと言われたときには小躍りした。だって、何冊も歌集を読んできた彼がついに「自分も」となったんだから(別に短歌を読むことの行き着く先が自身で詠むことではないというのは断っておく)。どこか僕の「好き」が伝わったような気がした。

僕はNくんの短歌がすっかり好きになった。「あまり自信ないけれど…」と読ませてくれる彼の作品は青い高校生の時分に戻らせてくれた。あのころにしか分からなかったこと、今では取り戻すことができないこと。やさしい気持ちになれたりたまに昔の痛みを思い出したり…彼自身だけどそうじゃない、でも彼自身が歌のなかで動いているから「生きた作品」になるのかな。ストーリーがあって、けれど映画や小説ではない、もっとそばにある物語。本当はNくんの歌を紹介したいところだけど…

もしかしたらNくんがこの記事を読むかもしれないけれど言ってしまおう。彼の作品を読みながら正直ぽつんと取り残されるような、そんな気持ちになることもある。分かっている。それはきっと嫉妬とそこから来る焦燥感だ。だからNくんから「添削してほしい」と推敲を求められると本当に僕なんかがそんなことをしていいのだろうか?せっかくの作品を崩してしまわないだろうか?としょっちゅう申し訳なくなる。

でも僕は自分の短歌が好きだし、"僕なんか"と卑屈になるのとは別として歌は否定しない。拙いことは分かっていても今の自分がのこせるたったひとつの手段だから。

きっと彼は引き返せない。どうかなと勧めたり歌集を貸したりしたのは僕だけど、自分で歌を詠もうと決めたのはNくん。すてきな作品をこの今もつくり続けているのも。

ねえNくん。たとえそこに救いがなくとも、いつか傷付くことがあっても、あなたはもう引き返せないんだよ。手放すことはできないし逃げることもできない。ようこそ終わりのないトンネルへ。