遺書と恋文

頭痛腹痛毘沙門天

ほんとうのさいわいは

死について書くのは難しすぎる。永遠のテーマのひとつだから。どれだけ科学が発展しようとも「死」についてはいつまでも「死」のままだ。それでも書こうと思ったのは、宗教や哲学に明るくない今の僕が持っている「死」について書いておきたいからだ。

いつまでもひとが死について考えることをやめられないのは、死とは自分のものではないそのひとだけのものであり、共有することができないからだろう。自分より先に逝ったひとのことを想い、願うことはできても、声をきくことはない。水面に浮かんだ花びらをすくったところで手のひらにただ花びらがあるだけだ。

かと言ってひとは軽々しく死に近付かない。宗教に詳しくない僕にとって、死は始まりよりも終わりのイメージが強く、だから多くの人がその終わりを怖がるからだろうと思っている。終わりたくない。終わらせたくない。それがひとびとの基底にある。

生にどうにかしてしがみつこうという思いと、死がすべてを終えてくれるからと縋る気持ち、その均衡を保って僕たちは生きている。みな、危うさの当事者にはなりたくないからこそ死とはどんなものだろうかと考える。だから僕らは死に惹かれるのだ。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を思い出した。病弱な母を持つ主人公ジョバンニが、クラスのザネリといういじめっ子のいたずらで川に落ちてしまう。青白い光、咲き誇るリンドウの花、宝石のような天の川。不思議なそれらを窓からいっしょに見ていたのはみんなの人気者であるカムパネルラだった。なぜ彼が?ふたりは汽車に乗って、銀河をめぐる旅に出る。死者と出会う旅のための汽車だった。そんな物語。

いつかその世界で、ジョバンニやカムパネルラと出会うときはあるだろうか。そのときは何と言おう。きっと彼らは、作中と同じ言葉をまた、しかし作中と違ってもう何も怖くない、という顔でこう言うだろう。

「ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近付く一あしずつですから。」

死ですら肯定するように感じた。死が幸福だとするなら、そこへたどりつく峠の上りも下りも死に向かったってジョバンニはきっとそれでもいいよ、と言ってくれるはずだ。カムパネルラを失ったジョバンニは今にも足場を崩しそうな笑顔で僕たちを送るのだ。

ときに死は笑顔で手招きしてくる。だがその笑顔がどんな意味なのかあなたにもたらすものは何なのか、それは望んだものなのか、望まれたものなのか、考えてほしい。死はいつもいつまでも僕らのこころをくすぐる。

2/19 追記

僕は死について何もわかっていない