遺書と恋文

頭痛腹痛毘沙門天

立ち上がる

両親から創作活動を否定され続けている。

始まりは高校生のころからだった。父親に詩歌で受賞したときの賞状や盾を見せれば「そんなことするもんじゃない」。最近だと母にちまちまとブログを書いていると話をすれば「変なことはやめなさい」。書道やピアノに関しての褒賞は手放しで受け入れてくれるのに、なぜ?のちの生徒会と生徒会活動に関する褒賞も認めてくれた。創作活動ばかりが頭ごなしに否定された。

創作活動——文芸活動——は僕にとって唯一と言っていいほどの趣味だ。逃げ場だ。勇気だ。僕が持っているただひとつの表現だ。それを横から殴るのはいつだって両親だった。でもしがみついた。諦めたくなかった。

中学生までの時分はそんなことなかったはずだった。国語の授業に書いて学校ぐるみで応募した作文や小論文のコンクール、それから中学2年生ごろに始めた短歌で賞を獲るたびほめてくれた。「だれに似たんだろうね。おじいちゃん(自分にとっての曽祖父)かしら」

曽祖父は俳句が趣味だった。自分が生まれる前に亡くなってしまった曽祖父は何を思って、何を感じて、文芸活動に向き合っていたんだろう。今ではもう知る由がない。

ほめられたい。認めてもらいたい。それは教師でもクラスメイトでもなく、両親にほかならない。

昔(先にある中学生の時分から文芸部に入部した高校1年生ごろにかけて)は賞状を大きなファイルに、母は大切に、大切に、文芸活動の賞状、任命状、何かしらの賞状などといっしょに保管してくれていた。ふくらんでいくファイルを読み返すとき。足りなくなってファイルを買い足すとき。僕はよろこびに満ちていた。もっともっとほしい!そして母さんと父さんにほめられたい!すごいね、そのひとことが聞きたい!勉学だろうと恋愛だろうと生徒会活動だろうと、すべてが文芸活動の糧になるはずだとがむしゃらに打ち込んだ。

しかし本格的に文芸にのめり込んでいくうち、両親の態度は反比例して変わっていった。

「読書感想文コンクールで3年連続優秀賞だったよ」「書いた小論文が冊子になることになったんだ」「IHみたいに文芸の全国大会への出場が決まった」そのどれも、母はわずらわしいとでも言いたいような顔でぴしゃりと「わたしには分からないから」と目を合わせずに言った。ちなみに全国大会への出場は辞退した。反対こそされなかったが、母に伝えたとき空気が淀むのを感じた。

まだ今の自分では足りないんだ。まだ頑張れる。まだ頑張らなくちゃ。そうしたら、そうしたら両親は。きっと。

僕の土俵は詩と短歌だ(ならばエッセイもといブログという形には向いてないじゃないかという話ではある)。まばたきをしているうちに過ぎていく3年間の高校生活を送るかたわらで詩歌をつくった。詠んだ。プロからの厳しい言葉も受け入れて活動を続けた。学生に賞金…はよろしくないから、図書カードやQUOカードをもらっていて、それで本を買い、勉強した。学校の図書室にはほとんどないので市の図書館に行き、詩集や歌集を読んだ。クラスメイトにポエム(笑)と馬鹿にされたって平気だった。すでに性根のねじ曲がっていた僕にきらきらした足あとを残していくこころもちだった。

大学生のときだ。まだ続けていた短歌の優秀作品を載せた冊子を2人に読んでもらおうとして、送付されてきた冊子を渡した。僕の載っている一編のページに付箋を貼って。まだ2人に認めてもらうことを諦められずにいたのだ。しかしその冊子が開かれることはなかった。「もういい」。背を向けた母の言葉だった。父は「こんなことをしていたらいつか気がおかしくなる」と言った。それでも捨てきれず物置小屋の奥へとしまうことにした。

大学2年生、僕は埃のかぶった盾を捨てた。大きな半透明の袋にがらんがらんと入れていった。まるで僕のこころを捨てているような音だった。それでもファイルの賞状だけは捨てられなかった。女々しいと思った。瑞々しいと他人から言われてきた自分の言葉、それは自分にとって大事な子供たちだった。こころを削って紡いだ。それらを捨てることは脆くなっていた足場さえなくなってしまう気がしておそろしかった。

もうあのときの、学生のころの僕は帰ってこない。感性は帰ってきてくれない。今の僕を見て高校生の自分はどう感じるだろう。認めてもらえる結果を残せず情けない?両親からほめられることに固執していると嗤う?たくさんのものを失ってしまった自身を哀れむ?多分、そのどれもだ。

ごめんね、両親どころか世間一般、社会に認めてもらえない僕で。ごめんね。それでも手放せないんだ。僕のかたちをなくせないんだ。ごめん。ごめん。でもまだすこしだけそばにいてほしい。