遺書と恋文

頭痛腹痛毘沙門天

窓から見える景色

東京に引っ越した。

生まれも育ちも岐阜で、大学と職場だけが名古屋(前職が名古屋、転職後は岐阜)で、一人暮らしもしたことはなく、はじめての引っ越しだ。

きっかけは職場に近いところへ転居したいから同居人を探しているという友人がいたからだ。いわゆるルームシェア。そして自室が与えられずプライベートのない実家に居づらい思いが、もうはちきれそうだったからというのもある。

ゴミの分別が厳しかったり、地下鉄が通っているから路線を覚えなければならなかったり。1ヶ月半経った今でも、地元とはちがう生活にまだ慣れない。

同居人と大切にしているのはお互い干渉しないことだ。本を読もうがテレビを見ようがゲームをしようが自由にしていい。これは最初に決めたルール。それは別として、生活するうえでの必要な協力はしている。僕は炊事と洗濯が担当。同居人は掃除。気付いたほうがする、ではなくて役割分担をすることで負担を減らしている。こうして記事を書いているあいだに同居人は風呂掃除をしていて、今改めてそれを痛感している。

こうして親元を離れて思うのは、付かず離れずの距離をとることがどちらにとっても精神衛生上よいことだ。極端に離れてしまえば関係はあっという間に希薄になる。しかしそれが解決なのだろうか?かと言って、いつまでも「子ども」でいることは僕にとって息苦しい。また親にとってものちのち後悔することになるだろう。付かず離れず。それがいい。容易に手を離せばいつか傷付くときがくる。

葛藤や焦燥感、反して安堵感を与えるこの場所が、どうかやさしい街であるといい。