遺書と恋文

頭痛腹痛毘沙門天

春のうつくしきかな

短歌との出会いは14歳。中学二年生の国語の授業でのことだった。

その子二十櫛に流るる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

与謝野晶子の作品。こころがゆさぶられた。僕はこの歌に一目惚れした。蛇足だが、生意気にもそれまで知っていた俵万智のサラダ記念日はカジュアルすぎたのか、あまりピンとこなかった。

前述した短歌について、現代語訳にするとだいたいこのようになる。 

その娘は20歳。櫛で撫でると黒髪は流れていく。自信に満ちた青春の、なんとうつくしいことだろう。

自信、そのどこかに繊細な不安。自分で自分をすきと言える誇り。青春のかがやきってこういうことなんだと、青春のかがやきを知らない当時の自分は思った。当時の褪せた日々にはそんなもの存在しなかったのだ。

そのころの僕はもうすでにちゃんと中学校へ行けなくなっていた。しかし国語の授業だけは塾や教材での自宅学習だけにせず出席していた。そんなのわがままだ。でもそのことだけは本当によかったと思う。もしかしたら僕は短歌に惹かれることなく大人になってしまっていたかもしれないから。

それからは図書室で借りた短歌集を保健室で読むようになった。図書室へ行けば同じ学年の生徒がひそひそと僕のことをなにかしら言っていたことは知っていた。けれどそんなの僕にとってはもうだんだんとどうでもよくなっていった。ほぼ保健室登校と言えど、登校する日が増えた。ちなみに近代短歌と現代短歌のちがいがわかったころでもある。

短歌の魅力は進路にまで干渉した。中学3年生、まず進学する際に選ぶ高校の一番の条件は「同じ中学校から進学する生徒がすくないこと」。ある程度通学に時間がかかってもいい。当時の環境とその環境をつくった同学年の生徒や教師が僕を苦しめているなら、とにかくそのことから逃れたくて仕方なかった。

学力なんかを加味して3校に絞ったけれど、最後に決めた理由は「文芸部があること」だった。短歌に関してまったくの初心者である僕が詠むにあたって必要としたのは知識と作品、技法だった。授業だけでは足りない。独学でも足りない。文芸部に入れば、それらを得られるはずだと。もっともっと短歌に触れたいと。その選択は正しかったと今でも胸を張って言える。つたなくていい。僕が僕の短歌をすきになれるなら。

「自分が短歌を詠む」という、中学時代の最初で最後の経験が僕にとっておおきなできごとだ。国語の授業の課題としてコンクールの中学生の部に短歌を応募することになった。

結果として作品はそのコンクールで評価された。それをきっかけに、短歌はいつしか僕を形作るものとなっていった。

それまで僕のことを宇宙人だとでも扱うようにしていた大人たちが僕をしっかりと見てくれた。認められたかった。ほめられたかった。

ただ、苦しくはあった。それは今でも続いている。もがいてもがいて、息ができないことだってごまんとあった。でも手放せない。逃げられない。逃げたくない。

それからの僕は自分と自分の感情に、すなおに向き合うようになれた。大丈夫、きみはきっと、大丈夫だから。きみの出会った短歌は10年以上も先の今も僕を支えている。それが入り口しかないトンネルだとしても。救われなくても。僕はこれからもこの引き返せないトンネルを進むよ。14歳の僕を抱きしめて、大丈夫なんだよ、きみの選んだ道は間違っていない、そう伝えたい。正しさなんていらないんだから。

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