遺書と恋文

頭痛腹痛毘沙門天

コンビニに生まれかわってしまっても

西村曜氏の歌集「コンビニに生まれかわってしまっても」より。まず氏のプロフィールを読んで驚いた。1990年生まれという若さでこれらの作品群が詠めるのかと。いや、だからこそ瑞々しく生命力のある歌がつくれるのかもしれない。

向き合わねばならぬ痛みと知りながら逃げるかたちの玄関の靴

「向き合わねばならぬ痛み」の力強さに熱量と鋭さを感じた。そろえられた靴は玄関のほうを向いている。どこまで逃げられるだろう。しかしどこかで分かってる。この痛みからはいつまでも逃げられるわけじゃない。いつか向き合わないといけないと。でも今は、今だけは、「逃げるかたち」になっているこの靴で走れるところまでゆるされるところまで、走っていきたい。それがいつか自分の首を真綿でしめることになるとしても。

ときおりは触れ合う手と手 繋いだらなんて名の付く僕たちだろう

たまに手と手が触れる関係の男女。でもそれだけ。手が触れ合ったと、それだけ。どちらかが恋心や下心を持ってしまえば、もしくは隠していたそういった気持ちを迂闊に晒してしまえば、あっけなく失ってしまうだろうふたりの不安定さ。僕の価値観だが、友情を愛情にしてしまう選択の何と残念なことか。お互いがお互いを恋人にしてしまうことを怖がっている。

つけられた跡をわざわざ「痕」と書くここがわたしのきみへのすべて

つけられた跡。「きみ」がつけたキスマークだろうか。内出血の跡はすぐに消えてしまう。でも痕は?痕というのは治癒したあとも残るものにつかう。裂いてもいい、切ってもいい。跡では駄目なのだ。痕じゃないと。どうか「わたし」に「きみ」からの残る傷がほしいと願った。「きみへのすべて」にしたいから。

この歌たちの前ではさようならという言葉さえ命になる。印象的な言葉で戦う姿はうつくしい。