遺書と恋文

頭痛腹痛毘沙門天

アルバイトを始めた話と疼痛 - 2

業務にあたって知っておいてもらわないと困るので「事故に遭ったため足が悪い」ということはきちんと話しておいた。重いものを持ったり、背伸びや跳ぶことができないので高い場所のものを取ったり、そういったことができないことがわかってもらえていないと何かと不都合だから。できない、と、やらない、は全く違う。

さいわいに、そのおかげで「ずっと立っているのはつらいそうなのでたまに休ませてあげて」と店長が店中のスタッフに伝達してくれた。実際ほかの人たちからは気を遣っていただき、客から見えない場所でしゃがむことや数分だけ椅子で休むことをゆるされた。

しかし僕は立っていても座っていても足腰に痛みが走る。疼痛のせいだ。

疼痛(とうつう)とは神経からくる痛みのこと。あまり知られていないらしいことを日常生活に戻ってから知った。飛び降りであちこちの神経をズタズタにしたため、その症状が後遺症として残っている。何と形容して良いかむずかしいけれど、じんじん、ずきずき、慢性的に痺れに似たうずきが続く。鎮痛剤を飲んだり同じ効果のある湿布を貼ったりするけれど気休めに過ぎない。座っていてさえ痛みは続く。痛いときはどうしたって痛いし、気圧が低い日は健常者が頭痛や体の痛みを訴えるように、尾てい骨を中心として背中、足、腰がいつもより強く痛む。

けれどこれでもまだマシになったほうだ。以前は横になっていても激痛のため起き上がるのが大変で、入院中は食事の際でもあまりベッドの角度を起こさず、ほぼあおむけに寝たような格好で食べていた。

ある日をさかいに痛みが軽くなった。台風が来る前日のざわざわとした夜だった。

窓が強風でがたがたとゆれ、どうどうと雨が降っていた。僕は四肢がちぎれるのではないかというそれまでになかった激痛を経験する。6時間空けないといけない鎮痛剤を1時間おきに飲み、ついこの歳になって泣いてしまった。心配した弟には夜間で病院に行き筋肉注射などで処置してもらったほうがいいと勧められたが、そのために起き上がることさえできなかった。

泣いているうちに、いつのまにか1時間ほどねむっていた。目が覚め朝を迎えると、体がばらばらになってしまうような痛みがおさまっていた。本格的な台風がやってきて、強風と雨が窓を叩く。低気圧はまだ続いている。しかし不思議とそれまで慢性的にあった"横になっていてもつらいほどの激痛"がなくなっていた。

「……?」

鎮痛剤を飲む。精神薬といっしょに寝たまま水で流し込み、気休め程度にほんのすこし軽くなるまで起き上がれなかった体が、まだまだ疼くとはいえスッと動いた。

「……??」

そこからはだいたい1ヶ月ごとに痛みがやわらいでいった。ファミレスやカフェで疼痛の心配なく座れるようになったし、規定量以上の鎮痛剤を飲むこともなくなった。

人間の骨とは3年で生まれ変わるのでそれではないかと弟は言う(逆にそれを過ぎると疼痛が軽くなることは望めないとも言っていた)。何にしたって生活の質がぐんとあがったことは事実だ。

とは言え、僕はこれからもこの疼痛からは逃げられず、鎮痛剤を手放せないだろう。しかし受傷後に仕事復帰をした。その職場を辞めたものの今はアルバイトができている。

日常生活を送るなかでできることの幅が広がり、からだが軽くなっていく実感がいまの僕を支えている。いつかこのからだを受け入れられますように。そうすればいろんな場所へ行くことにも、新しい何かに挑戦することにも、もっともっと前向きになれるはずだから。