遺書と恋文

頭痛腹痛毘沙門天

自死について何度も書く理由

本格的な夏休みが始まったのはつい今月からのことだ。躁うつを今まで以上にこじらせ、長引かせたことが原因だ。

そして昨晩、こころの治安が悪くなっていく様子がありありと分かる、6年間分の日記が見つかった。今日のできごとや詠んだ短歌などで、ああこんなこと考えてたんだな、とまるで他人の日記を盗み読んでいる気になった。大学3年生の終わりにあたる最後のほうは日付が飛び飛びでもう読むに耐えない内容だ。それでも生きることにしがみついていることだけは記されていた。

同時に入院中の筆談ノートが見つかった。なぜ筆談かというと、精神科に移る前にいた集中治療室での2ヶ月半ほどの毎日は喉の奥に呼吸器の管が入っていたので声を出せなかったからだ。せん妄のせいで生きているんだか死んでいるんだか分からないような状態ではいたが、伝えないとどうにもならないことは何かにつけてあった。


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「死ねなかった」「地獄」「いるだけでつらい」

まだ読み返せるだけマシだ。これは飛び降りてから幾日か経っているからだと思う。何本かゆがんだ線を引いているようにしか見えないものも何枚か残されている。書いた本人である僕でさえさっぱりわからない。そもそも文字ではない。f:id:mugmog:20190819071707j:image

 

なぜあっけなく未遂に終わった自殺について何度も何度も記事を書くかというと覚えておきたいからだ。痛みを、恐怖を、安寧をほしがって安寧を自ら失った自分の行為を。希死念慮と過去の戒めがせめぎ合う日々にどれほど自分の死に意味がないかを刻むために。いや、意味がないというのは語弊があるかもしれない。僕が飛び降りてから恰幅のいい母親は痩せた。父親は白髪が明らかに増えた。弟は死生観について敏感になった。

崖っぷちを生きていた僕と希死念慮のある僕のことに日々両親が涙を流していたことを聞いたとき、望まれない自分の死を恥じた。

ブログといういつ消えるか分からない媒体ではあるけれどのこしておかないとまた繰り返す。そして課題の終わらない8/31も繰り返す。僕はどこでだって、どうにだって、生きていけるはずなんだからと言い聞かせないと。そうでないときっとひとつの道しか選べなくなる。