命日
大学を卒業した年の夏、僕は飛び降り自殺をした。厳密に言えば自殺未遂。後遺症を抱えてなお、まだしぶとく生きている。
ODを経験した。リストカットを経験した。でも、どれも死ぬつもりは微塵もなかったし、死ねるとも思っていなかった。現実逃避で日々をつなぎ合わせていた。
就職してからのいい加減にした通院・服薬のしっぺ返しと環境の変化で病状を悪化させ、6月には寝たきりの無職期間。7月初旬に飛び降り自殺をした。ODやリストカットとは全く別物の、純度の高い希死念慮だった。
死ねなかったその日を僕は忘れてやらない。
その日、空は曇っていて、じめじめと蒸し暑い日だった。
僕は100均の付箋に遺書のつもりで「来世」とだけ書いて、屋上に向かった。遺書ということは完全に衝動的ではなかったのかな?ぺたぺたと裸足でのぼる階段が、いやに冷たかった。
そのときの格好はTシャツと短パン。タバコだけを短パンのポケットに入れていた。吸い終わったら生きるのも終わりにしようと思って。
10分もなかった。安タバコの吸い殻を潰して、屋上ではいたサンダルを雑に脱ぎ散らかした。フェンスがあるわけではない。腰より少し高い壁。ガードレールを飛び越えるようにして、僕にとっての生と死の境界を越えた。
それからの記憶はない。
全くない。
気が付いたらギラギラしたショッキングピンクの部屋にいて、螺旋階段に弟がいた。手を振っていた。僕もそれに応えて振り返した。せん妄だ。面会の母とまたもなやりとりができる数週間後になるまで知らなかったが、拘束されていたらしい。だから無理。そのあとのことはまた覚えていない。
ドン!!と音がしたらしい。近所の人が聞いていた。通りがかりの人が、コンクリートに打ち付けられて口から血を吐く僕を見つけてすぐに救急車を呼んだ。パトカーも3台来たんだとか。そんなことも知らない僕は自身の痛みさえ覚えていない。人間は激痛を感じると自己防衛のために記憶がなくなると聞いたことがあるので、それかもしれない。
僕が運ばれたのは、ACC(高次救命治療センター)と呼ばれる病棟だった。あまり詳しくは知らないけれど、ICU(救命治療センター)は重篤患者を短期に24時間体制で管理して、僕のいたACCは長期にと、その違いだった。実際1ヶ月半ほどいた、らしい。時間の感覚が分からなかった。
口を覆う形をした呼吸器ではなくて、ホースのような管が気管に入っていた。当然、声は出せなかった。最低限の会話はミミズののたくった字での筆談で行われたものの、伝えなければいけないことの半分どころか1/5も伝わっていなかった。もちろん経口での食事は摂れない。点滴で栄養と薬を摂っていた。喉の渇きさえなかった。
全て精神科へ転科してから聞いた話だけど、運ばれた日を含めて4回の手術をした。バッキバキに骨折したところを支えるためのボルトを入れたり、肝臓や胃の穴を塞いだりしたそうだ。
これは1年後に抜いたボルトの一部。これらがパズルみたいに組み合わさって体に入っていた。まだすこしだけ残っている。
そのときの僕は体じゅうのあちこちに何本も管がつながれていて、自力で脱いてしまわないよう両手足を拘束されていた。まあそんなことできるような筋力や体力や思いつき、それら諸々はなかったのだけど。
もともと処方されていたサイレースなどの眠剤、導入剤が与えられなかったこと、逃げられない痛み、そこに追い討ちをかけるように褥瘡を防ぐためにと看護師が寝返りの打てない状態の僕の体を一晩に何回か動かすのと。ACCにいた1ヶ月半のほとんどは2-3日に合算2時間くらいのうたた寝をするという生活を送った。まあ、一日中ベッドから動けなかったので別にいいのかもしれない。定時の食事だってないし、狂うも何も生活リズムがない。30分くらい経ったかなと動かなくされた体をくねらせて時計を見ても、まだ5分くらいしか経っていないなんて、毎日のできごとだった。
病室でレントゲン撮影をするときと手術のためにストレッチャーへ移されるときだけが、1日400時間くらいあるんじゃないかと思わせるそのときの僕にとって、激痛を伴おうとある意味ありがたいイベントだった。術後麻酔が切れたときのそれまで経験したことがなかったほどの持続する痛みと慢性的な痛みと同時に、時間の経過と戦っていた。
ときどき、別室の患者さんが亡くなったことを面会の母親から聞かされた。不謹慎だが少し羨ましかった。返事ができない状態でよかった。
ほかにもいろいろあったみたいだけど、僕は知らない。覚えていない。眠剤などと同じようにもともと服用していた薬を点滴でもらえなかったので、あらゆることがあいまいだ。もちろん麻酔のせいもある。幻聴幻覚ばかりに囲まれて、まともな記憶はほとんどない。
たとえば一人部屋なのに赤ちゃんが部屋で泣いていたり、老人と少女が口論をしていたり、部屋いっぱいに灯篭があったり。おかしな病棟だなあくらいにしか思わなかった。おかしいのはお前の頭だ。赤ちゃんの泣き声に関しては筆談で看護師に伝えると
「"そういう病棟"だから"そういうこと"もあるんじゃない?」
とあしらわれた。そういうことらしい。いや、現実的に考えて薬のせいだ。
4回の手術を終えて、気管に入っていた呼吸器を抜管して(オエッッッッッと声が出た)、一番重篤な患者が幽閉されるナースセンターの目の前の病室から移動した。それからしばらくして、今度は精神科の閉鎖病棟に幽閉され地獄を味わうことになる。これはまた身バレしない程度にいつか書こう。
結果、僕は精神障害に加え、脊髄損傷という身体障害を負うことになった。その後遺症は神経などから来ていて説明が面倒なので、もう細かくは書かないでおく。
リハビリを担当したPTやOTからは、なぜその損傷レベルで足が動くのかと不思議がられた。そんなこと言われたって知らない。ちなみに僕は退院して1-2年もすれば全快すると思っていた。脊損という障害を知らなかったし自分がそうだと知らされなかったから。
リハビリの甲斐あって立ちも歩きもできるようになった。でも、立ったまま静止できないことも、尿意便意を感じないことも、下半身に痛覚や熱感がなくて怪我に気付かないことも、そのほかにもそれらすべてが十分不便で、今後死ぬまで付き合っていかなければならない。
今、自殺を考えている人に伝えたいのは、死にたいなら確実な方法を計画しておけということ。そうでなければ僕みたいに生きづらい人生を自分で余計に生きづらくさせてしまうから。断じて自殺教唆ではない。つらいことから逃げたいと思う人への、先輩としてのアドバイス。
ODによる胃洗浄で死ぬほど苦しい思いをした知り合いも、首吊りで半身不随になった知り合いもいる。うまいことやった知り合いもいる。人身事故の情報やニュースの報道と最後のツイートから死んだことを推測されたTwitterのフォロワーもいる。
自殺は計画的に。
僕みたいに余計に生きづらい、みじめな人生を送りたくなければね。